自分にとっての宗教

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宗教的なものの考え方やものの見方について考えてみます。

photo-credit: syui


宗教というテーマは、随分前からから書こうと思っていて、放置していたことの一つです。今回は、ちょっとだけ私の考えを覗いてみます。


あらゆる宗教の目的



私が知るかぎりでは、有名所の宗教は、すべて、たったひとつの目的のために存在していると私は考えています。


ここで、有名所の宗教とは、例えば、キリスト教やイラスラム教、仏教などを指します。


では、なぜそれぞれの宗教の目的が同じであるということがありえるのでしょうか。


それは、目的が同じであっても、そこに辿り着くまでの道のりは無数に存在していることが多いからです。


例えば、目的地を東京という場所に設定したとします。


しかし、その目的地にたどり着く手段は、無数に存在します。また、これは、各々が現在居る場所によっても異なります。


具体的には、個人が既に、東京の近くに居る場合は、車や自転車、場合によっては徒歩という手段が適切でしょうし、もし海外に居る場合は、飛行機や船を使うのが適切です。


このように、宗教的な問題を考える際には、必ず、目的と手段、そして個人という要素に重点を置いて考えていく必要があると私は思います。


なぜこれらに重点を置いて考えていく必要があるのかというと、それは、宗教の目的が関係してきます。


では、宗教の目的とは、一体何でしょうか。


それは、「人々が互いの考え方を受け入れて、仲良く、平和な社会を築いていくこと。そして、すべての個人が幸せであること」です。


もちろん、上記は、私が宗教的な各教えから推測したものであって、公式的に公表され、発表されているものではありません。


なぜ、宗教の教えでは、このような目的が公表されないのかというと、それは、目的を公表した時点で押し付けになってしまう危険があり、それ自体が、上に挙げた目的と矛盾するからです。


また、過去の歴史に目を向けてみると、公表しないほうが世間受けしやすいという思惑もあったのかもしれません。


宗教上の神との対話と想像



では、なぜ、おおよその宗教の目的が「人々が互いの考え方を受け入れて、仲良く、平和な社会を築いていくこと。そして、すべての個人が幸せであること」と考えるのかを説明していきます。


これについては、宗教上の神と崇められる人物に質問をし、答えを想像してみるとイメージしやすいのではないかと思います。


ここで、例えば、イエス・キリストに「他の宗教について、どう思われますか?」と質問してみることにしましょう。


思うに、この質問に対し、イエスは、「他の宗教は全て劣悪で、どうしようもない。私の考え方だけが正しいのだ!!」と答えるかというと、そういった答えが返ってくるなんてのは全く想像できません。


私が想像した答えは、簡単に言うと、「他の宗教はどれも素晴らしい。しかし、私はこちらの考え方のほうが良いと信じます」という趣旨のものです。


上記の答えは、もしかしたら、各宗教のすべてを物語っているのかもしれません。


上の答えは、私が考える目的にとって、一番重要な2つのことを体現しているからです。


では、宗教の目的にとって、一番重要な2つのこととは一体何でしょうか。


それは、①他人の考え方を受け入れること、②自分の確固たる信条を持つこと、です。


そして、あらゆる宗教上の教義や儀式などを見ていくと、上に挙げた2つのことを実践するもののように感じます。


間違った宗教



よって、私にとって間違った宗教は、一つしかありません。


それは、他人に自分の考え方を押し付ける宗教です。


なぜなら、宗教にとって一番重要なことは、「他人の考えを受け入れること」だからです。


したがって、宗教とは本来、他人に押し付けるものでも、他人から押し付けられるものでもありません。


この点を勘違いしている人は、本来の宗教の目的から、その下にあるすべての手段、教えをねじ曲げて解釈してしまったのだろうと私は思います。


私は、本来の宗教とは、「教えてもらえませんか?」、「はい。いいですよ。一緒にやりましょう。」という過程で成り立つものだと考えています。


子供への布教



以上の考え方から、子供への布教についてもどうすればいいのかは明白となります。


宗教家が子供に教えてあげられることとしては、ただ一つ、「世界を見て回り、色々な考え方があるのを知りなさい。そして、その中で、自分が信じられるものを見つけなさい」ということでしょう。


子供への布教というテーマについては、実は、最近まで解説することを予期していませんでした。


しかし、アニメとかで宗教家の子供がかわいそうなことになってたのを見たので、補足しておくことにしました。


宗教の認知力



有名な宗教は、かなり多くの人間に認知されているということもあり、大きな力を持っています。


しかし、歴史を見ると、その認知力を利用しようとする人々がいるのもまた事実です。


例えば、日本では、神教が国教化され、他の宗教は冷遇された時代があります。


これは、国としての統率力を強め、国民への支配力を高めるために実行されたことだと言われています。


また、戦争に宗教を利用することには大きな意味もありました。


それは、兵士たちの恐怖を克服するための意味です。


どの国の人々でも、兵士になって戦うとなると、恐怖を感じるのが普通です。


そして、恐怖を感じた兵士を道具にして戦っても、勝ち目は薄いのもまた事実です。


よって、兵士の恐怖をいかに取り除くかということは、国家的な戦略の一つとして長年研究されてきた課題でもありました。


そして、兵士の恐怖を取り除く一つの方法として、広く認知されている宗教を利用することが考えだされました。


教えでは、「勇敢に戦ったもの、戦死したものは名誉ある死を迎えられ、永劫に讃えられる、素晴らしい世界が待っている」というように、宗教でよく言われる死後の世界を政治家達の都合のいいように改変、解釈されてしまった例がたくさん存在します。


以上のようなこともあり、宗教は、その認知力故に利用され、悪用されたりすると怖い一面もあるという点は、広く認知されて欲しい気がします。


自分にとっての宗教



少し懐疑的な私



適当なことを書き綴ってきましたが、最後に、自分にとっての宗教をちょっとだけ覗いてみたいと思います。


私は、正直、宗教については全く詳しくありません。


それに、お盆などの行事についても、すごく懐疑的です。


具体的には、日本の宗教には、一定の職業に就く者に利益をもたらすためだけに考え出された行事もいくつかあり、その一つがお盆だと考えていたりします。


だって、私の両親、おじいちゃん、おばあちゃんに、何のためにお盆があるのか、お盆とは一体何なのか聞いたところ、返事が返ってこないです。どうやら、自分が行っている行事の意味を全く理解していなかったみたいです。


ちなみに、この傾向は、詐欺に合う人に多く見られる傾向のようです。


よって、日本的宗教には、少し懐疑的な自分がいます。


ただし、断片的な情報や伝聞から言うと、私には、キリスト教的なものの考え方が合っているような気がしていますし、仏教的な儀式も幾つか思うところがあるので、宗教的なものを全部否定しているわけではありません。


少し信仰的な私



ここで、私が良いと思った仏教的な儀式の一つを紹介していきたいと思います。


私が良いと思った仏教的な儀式の一つに、「朝一番に汲んだ水は神様に捧げる」というものがあります。


これは、2つの点から良い、自分に合っていると判断しました。


1つ目は、「体」に良いのではないかという点です。


実は、朝、蛇口から出す水は、夜の間中、蛇口の縁に留まっていた水なわけです。


それを自分でゴクゴク飲むよりも、神様に捧げたほうが、自分の体にとってプラスなのではないかと思います。


ただし、このような理由なら、神様に捧げる必要はなく、朝一番に、しばらくの間、水を垂れ流したほうが合理的ではないかと考えることも出来ます。


しかし、これは、「心」に良くないのではないかと私は考えています。


これが「朝一番に汲んだ水は神様に捧げる」という儀式の2つ目の良い点です。


実は、資源を無駄遣いしたり、食料を粗末に扱ったり、物を乱暴に扱ったりすると、心が侵食されるのを感じることがあります。もちろん、悪い方向への侵食です。


よって、無駄になるはずの水を神様に捧げることで、これらの弊害を防ぎ、かつ、あらゆるもの(水など)に感謝するきっかけにもなるので、当該儀式は、非常に意味があるものだと考えます。


意味があるというのは、自分の「体」にも、「心」にもプラスになるということです。


以上にように、仏教にも、私が感心する教えがいくつかありますので、それほど仏教に反感しているわけではありません。


個人的には、このような自分が出来る範囲の小さなことから考えて、始めていけたらなと思っています。


そんなこともあり、私にとって宗教とは、最も小さく、個別に考えていくものがそれだったりします。