個人的な考えまとめ

MacBook Air Software Reinstall USB Drive
Google+に投稿したものを含め、個人的な考えをまとめてみます。省けるところは、省いていていきます。Google+への投稿は、突然消えることがあるらしい...。

photo-credit: syui


番号 テーマ
01 星々
02 暗黒
03 結果
04 金銭
05 感情
06 尊敬
07 真実
08 変化
09 犯罪
10 平和
11 努力
12 時間
13 存在
14 魔力
15 丁寧
16 裁判
17 宗教
18 数字
19 電源
20 心理
21 水鏡
22 結論
23 方法
24 読書
25 継続
26 虚言
27 無知
28 噂話
29 連結
30 集団
31 神々
32 天使
33 統計
34 悪意
35 見破
36 教育
37 実態
38 保険
39 失敗
40 執着



星々



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この世界



私は、宇宙を含めたこの世界というのは、存在の世界だと考えています。


全ては、存在から生まれ、存在に帰る。そういう世界なのだと思います。


なぜなら、無から有は生まれないからです。


また、この世界には、重要なルールが一つ存在します。


それは、宇宙の下にある星は、宇宙のルールに従わなければならないということです。当たり前のことですが、すごく重要なことだと思います。


この星



転生



私は、生まれ変わりというものを信じています。


そして、これは、存在の世界からして、すごく自然なことだと思います。


例えば、私たちが今現在存在していられる確率というのは、非常に低く、天文学的な数字となります。


この場合、自分は特別だ、当たりくじを引いた、幸運だったと考えるのは多くの場合間違いです。


よって、このようなあり得ない偶然が引き起こされる理由は何なのかを考えてみたいと思います。


私の場合は、「繰り返し」という理由を考えました。


例えば、宝くじを買ったとします。一発で宝くじに当たる確率は非常に低いでしょう。


しかし、何度も買っていれば、もしかしたら当たるかもしれません。


このように、何度も繰り返されることで、偶然というものは、必然になります。


私は、このような理由から、生命の生まれ変わり、星の生まれ変わり、宇宙の生まれ変わりを信じています。


環境




存在の世界では、すべてのモノが使いまわされます。


そして、私たちにとって環境というものは、祝福でもあり、呪いでもあります。


私たちは、環境があるからこそ存在できますが、そのために、環境によるありとあらゆる制約を受けるということを意味していると考えます。


制約




この星による制約は、2つの重要な制約があります。これは、規則、ルールと言い換えても良いかもしれません。


1つ目は、私たちの肉体は、この星から出ることは出来ないという制約です。


2つ目は、私たちの精神は、この星から出ることは出来ないという制約です。


1つ目については、理解できる話なので、省略します。


2つ目は、一体どういうことなのでしょう。


ここでいう精神というのは、生命の生まれ変わりに必要なものと考えます。


そして、重力エネルギーと同じように、精神をこの星に縛り付けるエネルギーが存在するのではないかと私は考えています。


精神をこの星に縛り付けるエネルギーを、ここでは、生命エネルギーということにしましょう。


なぜ、生命エネルギーが存在するのかというと、精神を縛り付けるエネルギーがなければ、私達個体の精神は、散り散りになり、すぐに消えてしまうからです。


つまり、この星に精神を縛り付けるエネルギーがあるからこそ私たちは存在できるが、それがなければ、存在できないということです。


例えば、この星をロケットで脱出した宇宙飛行士がいたとします。


そして、その後、宇宙飛行士が死んだとしても、この星で生まれ変わります。一方、地球が爆発したら、いくら肉体は無事でも、生まれ変われません。


その後はあくまで想像ですが、宇宙に還った精神は、星の誕生を待ち、生命の誕生を待つことになるように思います。


ここで、私は、物理的距離と精神的距離は、全く関係がないと考えていることが分かります。


偶然



この星には、もう一つ重要な制約があります。


それは、恐ろしいほど正確で、確実な偶然性です。


この世界は、ある意味、偶然に支配されていると言ってもいいかもしれません。


ちなみに、私は、この世界のルールを、一方で必然と言い、一方で偶然と言っています。


これらは、一見して矛盾する事柄です。


しかし、これは見方の問題です。


簡単には、視点が違えば、見える景色もぜんぜん違うということです。


このケースでは、自然から見た場合は必然ですが、人間から見た場合は偶然という言葉で表現することになります。


現在、私たちは、宇宙をも支配する最も巨大な力である「偶然」に支配されています。


なぜなら、私たちは、生まれた瞬間から、人生が決定されてしまっていることが多いからです。


どの家庭で、どの国で生まれるかで、大半の人の人生は決してしまいます。


これは、私個人の価値観からすると、とても悲しいことです。


私たちには、約50%の確率で、とても過酷な人生が待っています。


具体的には、子供の頃から、虐待やレイプ、人身売買や奴隷労働に怯え生きて行かなければなりません。


この星の生まれ変わりのシステムは、その偶然性故に、とても厳しく、公平です。


個人的にはこれは良いことだと思います。


一方で、人類は、この偶然というものに立ち向かっていかなければならないとも思います。


社会



私たちが、生まれ変わった時、偶然に支配されないためには、「生まれながらにして平等な社会」を実現する必要があります。


私は、人類が、この万物をも支配する偶然の力を克服することができる日が来ると信じています。


もしかしたら、この理想世界が実現する頃には、星の寿命も尽きかけているかもしれません。


しかし、ほんの少しの時間でもそのような理想的な世界の中で過ごせる人がいる限り、私はこの目標を諦めたくないし、人類にも諦めてほしくないと思います。


個人的には、自分ができることから、「より良い社会を実現には、こっちのほうが良いんじゃないかな」と思ったら、そっちの方向で行動していければ幸いです。


死について



今度は一転して、死というものについて、少し現実的な話をしていきます。


たまに、死んだらどうなるのか、とか生きるっていうのは、どういうことなのか、とか考えてしまうことがあります。


たぶん、多くの人も一度は考えたことがありそうなテーマです。


私は、今のところ、以下の様な感じで適当に考えています。


①死とは、恐怖である。



他人が目の前で殺されるところなんかを目撃してしまったら、死への恐怖が急激に高まるのではないかと想像します。


②恐怖を感じると、死ぬ確率も上昇する



恐怖してしまうと、生き延びる確率は非常に低下してしまうと考えます。

なぜなら、恐怖している時の行動は、結果的に間違っている事が多いからです。

反対に、向こう見ずな行動も同じでしょう。

よって、生き延びる確率を上げるためには、恐怖しても、考えなさすぎても良くありません。

非常緊急場面で生き延びる確率を上げたいのなら、慌てふためかないことが一番だと思います。

そもそも、どうせ死ぬなら、慌てふためいて死ぬよりも、冷静に死んだほうがカッコいいと思います。


③ピンチの時ほど、その人の本質が現れる



しかし、こういったことを理解していても、ピンチの時、自分がどういった行動を取るのかというのは、そういう場面に直面してみないとわからないものです。

実際、死に直面してみてはじめて、自分がどういった人間だったのかが分かるという仕組みになっているのでしょう。

ピンチの時ほど、その人の本質が現れるものだと私は考えています。


④誰もが通る道



死ぬというのは、一般的には嫌なことです。

でも、嫌なことを先延ばしにして、いいことはあるのでしょうか。

現実では、どれだけ長く生きたかが評価されます。

しかし、それは本当に価値あるものなのか、私は大いに疑問を持っています。

ただ単に、死ぬのが早いか、遅いかの問題に過ぎないのに...。


⑤命にしがみつく



長く生きれば、生きるほど、命にしがみつきたくなるのではないかと私は考えています。

これは当たり前のことですが、私には、そういう人が醜く見えるです...。


⑥生まれ変わり



生まれ変わり、それはごく当たり前で、自然なことなのでしょう。

あまりにも長いこの世界の時間の中で、現在の私達が存在している確率というのは、きっと天文学的な数字なのでしょう。

しかし、これが何度も繰り返されているのであれば、それは、あり得ない偶然ではなくなります。

この統計的な考え方は、私の基本となっています。


暗黒



https://plus.google.com/118398541149293101572/posts/N3V3VdP6xXT


暗黒物質とは何かというと、簡単には、未だに解明されていない謎の物質のことです。ダークマターとも言われ、ゲームでも度々名前だけはでてきますね。


一方、暗黒エネルギーというのは、未だに解明さられていない謎のエネルギーのことです。


「宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことが分かってきている」ということらしいです。


多くの人は、現在の科学で解明され、更には、目に見えているものしか信じないものです。


しかし、確率的にいうと、この世界は、未知のエネルギーや物質で満たされていることになります。


しかし、いつの時代にも、全てを理解し、分かったつもりになっている人が非常に多いのも事実です。


これは、私自身ついても言えることです。


私は、この世界の構成(成り立ち)を考えるとき、そのほとんどの部分を、想像や直感に任せています。


確かに、これを現実的ではないと批判する人もいるでしょう。


しかし、現実的な世界の構成というのは、世界の本質が捉えられていない確率が96%(*)もあります。

(*)世界を構成するもののうち、たった4%しか解明されていないため


よって、私は、多くの人に、自分が信じる世界を自由に創造し、それを堂々と主張して欲しいなと思っていたりします。


そういえば、「中二病でも恋がしたい」に出てきたダークフレイムマスターのダークというのは、この暗黒(暗黒エネルギーや暗黒物質)を意味しているのではないでしょうか。


「悪い」という暗黒ではなく、「まだまだ未知のエネルギーが世の中にはあふれているのだ、フハハハッ!」という暗黒のような気がしています。


とすれば、中二病というのは、それほど悪いものではないのかもしれませんね。


結果



https://plus.google.com/118398541149293101572/posts/i7KUqfPCMCo


私は、結果を見て判断するというのは、誰にでもできる簡単なことだと考えています。


しかし、それ故に、価値が薄いものでもあります。


例えば、テストの結果を見て判断、成績を見て判断、業績を見て判断などです。


この様な誰にでもできる簡単なことをしているだけで、本当にうまく行くのでしょうか。


私は、難しいと考えています。


例えば、突然大きくなる会社もあれば、業績を落ち込ませる会社もあるはずです。


ずっと昔のままという会社は、むしろ少ないのではないかと思います。


なので、今現在の結果だけを見て、信頼を決めてしまうというのは、個人的には、非常に残念なことだとは思っています。


私たちすべきことは、あくまで未来への評価です。


現時点で判明していることではありません。


私は、結果というものについて上のような考え方を持っています。


お金



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お金について



ちょっとばかり、「信頼」、「信用」というテーマについて考える機会があったので、自分の考えをまとめておきます。


まず始めに、お金とは一体何でしょう。


一般的なイメージとしては、コインや紙幣が思い浮かぶと思います。しかし、それが一体何なのかを理解してる人は少ないような気がします。


また、欲しいものを買うことができるのがお金という人もいます。


確かにイメージとしては、その通りだと思います。


では、次に、なぜお金というものが存在するのかを考えていきたいと思います。


お金というものは、人間が作り出したものです。


何のために作り出したかというと、「信用」を目に見える形にするために創りだしたものだと私は考えています。


皆さんも知っての通り、「信用」というものは、目に見えません。


このように目に見えないものを目に見える形にするために開発されたのがお金だと思います。


信用について



信用というものは、人間社会で最も大切なモノだと言っていいかもしれません。


なぜなら、人間社会では、人が互いに助けあって生きているからです。


助けあって生きているというのは、お互い、対価と見返りを要求するということです。


つまり、「この仕事、自分では出来ないので、やっておいてくれないか?代わりに、こっちの仕事は私がやっておくよ」という関係です。


または、「私が持ってるものあげるから、代わりに君が持ってるものもらえないかな?」という関係です。


このような関係にある以上、信用というものがかなり重要な地位を占めます。


つまり、相手が信用出来ない人間だった場合、いくら相互扶助を望んでも一方的に利益を提供しただけで終わってしまう危険があるからです。


ここで、このような曖昧で抽象的な「信用」というものを目に見える形で分かりやすくしておく必要性が出てきました。


そのような事情から開発されたのが、お金という概念だと私は考えています。


ここで、お金というものは、元々、抽象的で曖昧なものである信用というものを変換したに過ぎず、本来の信用とお金との間に齟齬が生じている可能性もあります。


よって、お金は絶対的なものではありません。


目に見えない信用というものを変換する過程で、こぼれ落ちていくものが存在します。


具体的には、目に見えない信用というものを過大評価、または過小評価して、お金に変換してしまっている場合もあると私は思います。


信頼について



そして、お金というものは、各国がそれぞれに、紙幣やコインというものに置き換えます。


つまり、「信用」 > 「お金」 > 「紙幣やコイン」という流れで変換されていくことになります。


ここでも、「信用」と「お金」の齟齬が明らかになることで、例えば、日本国が発行する円に対し、アメリカが発行するドルが暴落したり、上昇したりする現象が起こるわけです。


株価についても、信用という概念が非常に重要になります。


そして、それ以上に重要になるのが、「信頼」です。ここでいう「信頼」というのは、「期待」と言い換えてもいいかもしれません。


では、「信用」と「信頼」の違いは何でしょうか。


これは、時期の違いによって使い分けられる言葉です。


具体的には、「信用」は現時点でのものをいいます。そして、「信頼」は将来のものを言います。


つまり、「信用しているよ」というのは、現時点で信じているよ、ということで、「信頼しているよ」というのは、あなたの未来を信じているよ、ということなのです。


株価というのは、日々変動します。


なぜ変動するのかというと、当該株式を発行する会社への信頼(期待)が日々変化しているからです。


ここで、株価は、時に暴落することがあります。


では、なぜ暴落することがあるのでしょうか。


それは、株価が信頼によって、動いているからです。


株価というのは、おおよそ、現時点での企業の価値ではなく、将来への企業の価値を織り込んで表示されます。


これは、企業の実態からドンドンと離れていくことを意味します。


企業への信頼や期待が高まれば、高まるほど、株価は、企業の実態を離れて上昇していきます。


これが株価です。


そして、実態を離れすぎた株価は、修正といって、定期的に実態に近づく動きをします。


なぜこのような動きをするのかというと、多くの投資家達が「現在の株価は、実態と離れすぎている、このままでは、危ない」と判断しているからだと言われています。


このように、信頼という未来への期待により動かされている経済というものは、現実の実態と離れすぎてしまうと、暴落という現象を招くことがことがあります。


もちろん、反対に信頼が実態の下に位置することもあります。いわゆる下落の状態です。ちなみに、今までは、上昇の状態を例にあげていました。


ここで、株価の値動きを見ていると、あることが分かってくるような気がします。


どういうことが分かってくるのかというと、お金持ちになる人がどういった人なのかが分かってくるような気がするということです。


お金持ちになる人というのは、その企業が小さい頃から目をつけて、信頼し続けた人です。


例えば、Appleという会社について見てみましょう。


Appleの株価を見てみると、最初は、結果を出せなかったり、失敗したりで、もうダメだと言われるような状況です。


しかし、それでもその会社を信じて、株を持ち続けた人は、今頃、大金持ちになっているはずです。


反対に、Appleが成功したと分かった後に、投資した人は、結構厳しい状態になっていることが伺えます。


また、コロコロと信頼が揺らいでしまった人も値動きを見る限りでは、利益を上げるのは、難しいでしょう。


よって、お金持ちになれる可能性が高い人というのは、疑う人や、コロコロと信頼を変更してしまう人よりも、自分が信じたものをとことんまで信じ抜く人だということが出来そうです。


しかし、信じる、信じ続けるというのは、かなり難易度が高そうです。


状況が悪くなっても、それでも信じ続けられるという人は、多くはありません。


また、信じ続けたことが必ずしも正しいとは限りません。失敗もあるでしょう。


それでも、信じ続けられるというのは、ある意味、天性なのかもしれませんね。


と、適当に、お金を持ってそうな人、というよりも、お金を持ち続けられそうな人について考察してみました。


ちなみに、一時だけ成功したり、お金持ちになったりすることは、そう難しくはないと考えるので、上のような表現を使っています。


感情



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矛盾について



感情というものは難しいですね。


言葉は、本来感情を伝えるためのものです。


もちろん、言葉も人が作った道具なので、様々な使い方ができるのも事実です。


しかし、言葉の様々な使い方については、長くなりそうなので省略します。


話を戻すと、感情は難しいという話でした。


そして、その難しい感情を表現するためによく使用されるのが言葉だと言いました。


しかし、感情というのは、必ずしも最初から存在しているものばかりではありません。


時に、感情は、言葉によっても創造されることがあると考えます。


矛盾していますね。


だって、私は、元からある感情を伝えるために、言葉は作られたと言ってますから。


しかし、言葉上は矛盾していることでも、事実上は矛盾していないことはいくらでもあります。


私は、真実といえることの多くは、言葉上、矛盾しているようにみえることが多いように感じます。


よって、矛盾を過大に捉えすぎてしまうと、本当のことがわからなくなってくる危険があるように考えます。


個人的には、この点は、日頃から注意しておきたいことですね。


ここで言いたかったのは、主に3つのことです。


①言葉が作られた目的は、相手に伝えたいことがあるから


②しかし、言葉にはそれ以外にもいろいろな使い方ができる


③伝えたいことを言葉に変換する過程で、伝えたいことがより明確になってきたり、新たに伝えたいことが増えてきたりすることがある


批判について



一部で、「誇り」や「愛」については、持たないほうが良い、争いの元だと言われることがあります。


そして、平和のためには、これらを放棄しなければならないとまで言われているのを良く見かけます。


確かに、この考え方にも一理あると思います。


なぜなら、これらは、時に他者への排除につながるからです。


例えば、特定のものに誇りを持てば、それ以外のものの排除に、愛を持てば、それを失った時の復讐にというように、強いプラスの感情は、容易に、同じだけの負の感情に転換してしまうことがあります。


しかし、これらが必ず他者の排除につながるかというと、そうではありません。


また、昔、宗教についての記事で書いたことがあったかと思いますが、私は、「他人の考え方を受け入れること」が最も大切だと考えています。なお、この記事で書いた①他人の考え方を受け入れること、②自分の確固たる信条を持つこと、は一見して矛盾しています。


http://mba-hack.blogspot.jp/2013/11/blog-post_4.html


確かに、すべての人々が「誇り」や「愛」を持たないようになれば、争いは起こらないでしょう。


しかし、これは、一見、平和への近道のように見えますが、実はそうではありません。


私は、「誇り」や「愛」を持った人も含め、様々な考えや価値観を受け入れることこそ、平和への近道だと考えています。


これは、一見すると、遠回りに見えますが、最も早く目的地に辿り着けるものでしょう。


さらに、すべての人々が害のあるものを持たないようになる未来より、すべての人々が色々な価値観を受け入れるようになる未来のほうが、実現する確率が高いと思います。


ただし、私は、「誇りを持つな」という記事を書いた人が、単に伝えたいことを伝えるために、このことを強調したに過ぎないことは分かっているつもりです。


私もそうなのですが、「日本人は立派」とか「政治家は愚か」とか特定の分類された人達について言及することがあります。


しかし、前にも言ったことがあったかと思いますが、私は、こういう分類、国籍や社会的身分により人を差別することが嫌いです。


よって、本心では「日本人は立派」とも「政治家は愚か」とも全く思っていなかったりします。


これらの表現を用いたのは、あくまで、伝えたいことを分かりやすくするためのものに過ぎません。


したがって、文面だけで人を判断すると、残念なことになります。


また、一つの事柄をもって、すべてを判断してしまうことも同様です。


したがって、私は、なるべく相手の本質を読み取ってから批判的な文章を書くようにしています。


尊敬



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信条について



例えば、会ったこともなければ、話したこともない人をすごく褒めている人がいるのだけど、私には難しいかなと思いました。


なぜなら、私はその人のことを何も知らないから。


会ったこともなければ、話したこともない人物を評価するというのは、私にとってはすごく難しいことなのです。


ここで、「スティーブ・ジョブズ」が大絶賛されている中、私一人が、「スティーブ・ジョブズ」には、会ったこともなければ、話したこともないので、どういう人物なのか、よく分からないと言っていたことを思い出します。


私は、あくまで、目の前の自分自身と対面する人物を評価していくタイプみたいです。


また、お金を持っている、成功している、自伝があるなどの事情については、私の人物評価には、あまり大きな影響を与えません。


基本的に、私の前では、その人の性別、年齢、社会的身分、その他諸々の事情が全て無視されます。


そして、その人の人格だけがものをいいます。


このような信条を持っているため、私にとっては、会ったこともなければ、話したこともない人を褒めるのは、結構難しいことなのですね。


なんでこんなことするのかというと、何かの本に書いてあって、この考え方、いいなーと思ったことがきっかけだったと思います。


しかし、スティーブ・ジョブズは、本当に尊敬できる人物だったのでしょうか。もし自分がジョブズの下で働いていたら、どうだったでしょう。彼の妻や家族だった場合は、どうでしょう。彼は、周りの人間にどのように接し、どのように交流していたのでしょう。


ただ、一つ言えることとしては、「私は彼のことを何も知らない」ということだけです。


基準について



私は、人を判断する時、意外と直感を頼りにすることが多いです。


第一印象が大切とか言われることがあるのだけど、私は、それもそうだなと考えています。


何故なら、直感が働くタイミングが、まさにその場面であることが多いからです。


直感が働くのは、主に、何も考えていない時や先入観を持っていない時に働きます。


一度、会って話を聞いてしまうと、それ以降は先入観が邪魔をして、直感が発動されにくいと思います。


しかし、初めて会ったその瞬間だけは違います。


相手に対して、何も考えてないし、先入観もないので、直感が発動されやすい状況だと私は思うのです。


そして、初対面の人に会った瞬間に降りてくる直感は、その人の本質を知らせてくれることが多いような気がしています。


ただし、初対面時に発動する直感は、何故か、その人の表面的な部分を知らせてくれることはありません。


相手の表面的な部分については、時間をかけて判断しろということなのでしょう。


ちなみに、ここでいう「本質」とは、人が持って生まれたというような意味で、その人の先天的なもののことをいいます。


反対に、ここで言う「表面的」とは、経験や努力などによって培われた、その人の後天的なもののことをいいます。


どちらも非常に大切なものですが、初対面時に発動する直感は、前者である「その人の本質」しか知らせてくれません。


このように、直感といっても万能なものではありませんが、普段知ることができない非常に大切なことを知らせてくれたりするものでもあると思います。


ちなみに、本質と表面、どちらを重視すれば良いのかは、場合によって異なります。


基本的には、その人の本質を重視すべきでしょう。


多くの人は本質には逆らえないことが多いという印象があります。


しかし、ごく稀に、本質をも打ち破る表面を持った人がいます。


このような例外的なケースでは、その人の表面部分を重視してあげるべきかと思います。


といっても、直感やその他の判断を用いて、人のことを分かったつもりになるのは愚かなことです。


また、人を評価すること自体、非常に無意味なことなのかもしれません。


その事だけは、頭にいれておかなければいけないなと思いました。


鏡について



この点、自分の周りには、どうしても自分に似た人が集まってくるものだと私は考えています。


よって、自分の周りの人たちは、自分を映し出す鏡でもあります。


このことから、人を評価すること自体、もしかしたら不要なことなのかもしれませんね。


真実


私は、おおよそ、矛盾の中に真実があると考えています。


確かに、言葉の上では、矛盾しているようにみえることであっても、現実として、それは矛盾しないことも多いです。


なぜなら、言葉は完璧ではないからです。


言葉というのは、人が、自分の気持を相手に伝えるために作ったものです。


自分の気持は目に見えませんから、他人にも分かるような形にしたかったのでしょう。


しかし、目に見えないものを実体化する行為には、必ずと言っていいほど、こぼれ落ちる多くの感情が存在します。


本質の重要性



表面上の言葉を読み取る能力よりも、その人が本当に伝えたかったことを読み取る能力のほうが上位に位置します。


なぜなら、言葉が存在する意味を考えてみると分かります。


言葉は、単に自分の気持ちや言いたいことを伝えるための道具にすぎないのです。


よって、自分の気持ちが伝われば、言葉は不要です。


このことが分かっていないと、時間の無駄が多く発生してしまうことがあると思います。


彼らにとっては、相手に自分の考えを正確に伝えられなかった時点で、その人の負けだと考えます。


確かに、それも一理ありますが、言葉が存在する理由を無視している様にも思えます。


再びの矛盾



私は、矛盾した内容の記事を連続で出す事が多いです。


ここで、再びの矛盾として、個人的な考えを一つだけ紹介します。


今回紹介するのは、情報の送り手と受けての関係です。


私は、情報の受け手がどう受け取ったかが全てだと考えています。


たとえ情報の送り手が、いかなる意図で送ったとしても、それには価値は全くありません。


重要なのは、情報の受け手が、どう受け取ったか、それだけだと考えています。


これは、先ほどの考えと矛盾しているようにも思えます。


なぜなら、私は、「その人が本当に伝えたかったことを読み取る能力のほうが上位に位置」すると言っています。


これは、一見して、情報の受け手は、送り手の意図をしっかりと読み取るべきという考え方にも見えます。


恋愛


ここで一つ、上記の事柄とは全く関係ありませんが、SNSの恋愛事情を見てみましょう。


SNSの恋愛事情というのは、情報の送り手と受け手の意図が錯綜し、とても悲惨すぎるように感じました。


まず、男性側からの意見としては、会った瞬間に、「騙された」、「誰?」、「顔が...違う...!!!」と思った人がいるようです。


次に、女性側の意見として、本音が聞けなかったような気がしますが、唯一聞けたのが、付き合ってみて「なんか違う」と感じたみたいです。


そして、この原因の多くは、女性側にあるように感じました。


まず、多くの欲望にとりつかれた女性は、「1.プリクラやひどく傾いた写真を一瞬だけ見せようかなー、という」、「2.ブスでしょー私、という」というパターンを使用するのが一般的であるような印象があります。


もちろん、女性には、男性を騙したという意識はないのでしょうし、騙すつもりもないのでしょう。


しかし、情報の送り手よりも、情報の受け手がどう感じたかが一番重要なことだと思います。


例えば、詐欺師は必ず「私は騙すつもりはなかった」といいます。


しかし、その言い分が通ることはないでしょう。


これは、客観的に見てどうなのかという問題だからです。


ここで、人物写真というのは、本当の自分を伝えるために使うものです。


しかし、個人的な話になりますが、私は、プリクラとか変に傾いた写真を本人だと認識できたことはありません。


見せてもらったことは何度かあるのですが、私の能力では、本人だと認識できることはありませんでした。


もちろん、私が雰囲気で人を判断しているということ、また、あまり人の顔が認識できないということも影響しているように思います。


しかし、このような事情があるため、個人的には、プリクラとか変に傾いた写真を真に受けることは私にはできません。


にも関わらず、こういうものを本気で信頼してしまうと、実際会った時に、「騙された」、「誰?」、「顔が...違う...!!!」ということになるのではないでしょうか。


この点は、男性側にも非があるとは思います。


本人とかけ離れた可能性がある写真ばかり見てないで、少しは相手の本質、というか性格を見てみたら?ということです。


SNSでは、女性というだけでかなりチヤホヤされているように感じます。


そして、チヤホヤされたいがためだけの発現が目立ちます。


このような欲望に取りつかれた女性は、自分を持ち上げてくれる人の中から自分にふさわしい人物を選ぼうとします。


ようは、これが男漁りというものなのでしょう。よく分からんけど。


しかし、付き合ってみると、結果として「なんか違う」と思うわけです。


なぜ、これほど男漁りをし、周到に相手をリサーチし、数々の条件を精査し、自分にふさわしい人物を見つけたはずなのにこのようなことが起こるのでしょうか。


それは、恋愛というものは、自分と同じレベルの人としか付き合えないからだと私は考えています。


よって、自分が欲深く、醜悪であれば、かなりの確率で相手も同じレベルだということです。


そんなこともあり、焦ったり、自分のことばかりを考えて、付き合おうとすると、碌なことにはならない気がしています。


個人的には、自然の流れではない恋愛というものには、幸せになれるとはと思えないのですが、どうなんだろう...。


変化


子供と大人



私にとって子供というのは、7, 8歳の子を言うのであって、それ以上の人は、大人です。


正直なところ、子供とか、大人とか区別する必要性を私はあまり感じていません。


そういう区別をしたがる人というのは、自分の子供時分のことを忘れてしまっているのではないでしょうか。


例えば、あなたが子供だった時、あなたは、周りの人を子供だと思っていましたか?


たぶん、多くの人は、そんなことはないでしょう。


悪い奴もいれば、良い奴もいる。ただそれだけだったのではないでしょうか。


また、悪いやつの中には、平気で人を傷つけ、犯罪行為を行う人間もいたのではないかと思います。


そういう人間を、果たして子供扱いする必要があるのでしょうか。


子供だから悪い人間はいないだろうというのは、全く違います。


子供は、大人です。わかり易い表現をするなら、大人の分身、コピーでしょうか。


この事実を認識できていない人が多いような気がします。


よって、私は、子供だからといって特別扱い、または、子供扱いする必要は全くないと考えています。


こうこというと、例えば、子供の判断能力不足を指摘する人も出てくるかと予想しますが、私なら以下の様な質問で返します。


「あなたの周りにいる大人達は、判断能力、十分ですか?」


そうですね。賢い子もいるし、馬鹿な子もいる。それは、子供であっても、大人であっても変わらないと私は思います。


私がこのように考えるようになったのは、ある本(翻訳された海外の本)がきっかけでした。


本のタイトルは忘れましたが、こんなことが書かれていました。


「確かに、(大人は)礼儀正しいしゃべり方をし、着心地が悪そうな服を着ている。しかし、中身は子供の頃と何も変わってはいない」


私は、変われる人は、ほんの一握りで、ほとんどの人間は、変われないのだろうなとそう思います。


もちろん、子供の頃から全く変われないのです。


そのことから、多くの人の本質は、子供の頃と全く同じなのでしょう。


本質を変化させることができる人間は、非常に少ないと思います。


ただし、その人の本質を確定付ける、作り上げるまでの期間である1-7歳までの間は、この限りではないと思います。


しかし、それが完了してしまうと、多くの人は、何も変わらないまま大人になっていくのかなと考えています。


確かに、経験を積んでいくことは予想されますが、本質が変わらないので、知識を与えられた時、どういう判断をするのかは、全く変わらないと思います。


この点、本質を変化させれば、同じ知識を与えられても、判断が異なってくるのでしょう。


可愛いと可愛くない



ここで、雑誌とかでよく特集されている「可愛くなろう」というものがあります。


私は、これは無理なことだと思っています。


ネットでは、若い子ほどチヤホヤされているような印象を受けます。


しかし、チヤホヤされている子は、かなりの確率で、あなたの周りの子達と何ら変わりませんよ。


これは、あなたがもし老人ならば、その周りの老婆と全く変わらないだろうということを言っています。


私は、可愛くない子は、何歳であろうと可愛くないと思っています。


反対に、可愛い子は、何歳であろうと可愛いものだと考えています。


よって、ネット上の男の行動原理がよくわからない...。


なぜ、可愛くない子がチヤホヤされてるのん?


心と体



次は、心と体について個人的な考えを書いていきたいと思います。


心と体は、一体だと私は考えています。


ここで、心だけを切り離して考える人も多いのですが、私はそうは考えません。


心と体、セットにして初めて一人の人間だと思います。


よって、相手の心だけ、もしくは、体だけから人を捉えようとすることは大きな間違いだと考えます。


この点、私の心と体に対する考え方は、私の先程述べた年齢を全く重視しない考え方と矛盾するようにも思えます。


しかし、現実問題としては、矛盾していません。


次に、一見して矛盾しているようにも見えるこの問題について、具体的な解説をしていきたいと思います。


私は、心と体が一体だと言いました。


このことから、簡単に言うと、心が老いると、体も老いると考えています。


また、体が老いると、心も老いると考えています。


例えば、老婆の話をしましょう。


彼女は、体が老いています。

このことから、心も老いてるのだろうと推測されます。


つまり、彼女が可愛いということはあり得ないわけです。


反対に、本当に可愛いくて綺麗な人間というのは、多分ですが、早死します。


何故なら、綺麗な心に体が追いつかないからです。


心と体は一体です。


よって、その齟齬が広がり、一定の限界を超えた時、人は死ぬと思っています。


上記の例で行くと、赤子は、体が最新の状態です。


よって、心も最新の状態であることが予想されます。


このことから、もしその子の心に汚れが生まれないと、その赤子は、死んでしまうのだろうと推測します。

永久に歳をとらないというのは、事実上不可能です。


この星には、時間というものが存在し、それは、最小単位であっても必ず劣化を発生させるものだからです。


この点、私は、時間というものが個々人の中で決せられると考えています。


ただし、大枠のルールは、この星のルールに基づくと考えています。


よって、個々人の時間経過は、人それぞれ、歳のとり方も違いますが、大枠ルールとして存在する時間の最小単位、最小経過は必ず発生します。


非常に難しく、複雑な理論です。説明もうまく出来ていませんが、感覚としては以上のような感じです。


ただし、上記は原則論であり、必ず例外があります。注意してください。


例えば、私は、「人生をやり直すのに、遅すぎるということはない」と考えています。


つまり、何歳であろうと、その人の本質を覆すことは可能だと思います。


しかし、確率的に見て、多くの人には不可能だと考えているだけです。


完全と不完全



私の中では、完璧、完全な人間と、不完全でちぐはぐな人間がいるという気がしています。


そして、この割合が、完璧な人間が9割、不完全な人間が1割です。


もちろん、これは単なる私の印象です。


ほとんどの人は、完璧な人間側だと思ってます。


完璧だからこそ、変わる必要がないのです。


多くの人は、このような理由から変化する必要がないのだと私は考えています。


反対に、不完全な人間もたまにいます。


このような人達の見分けは、一瞬で出来ます。


具体的には、何処かちぐはぐで、周りの人間の誰よりも遅れた感じなら、その人は不完全な人間だと思われます。


これは、私自身がそうなので、よく分かります。


そして、数は少ないけど、たまにそういう人を見かけたりもします。


かわいそうだと思いますが、どうしようもありません。


ただ、どちらにも長所と短所があると思うのです。


完璧な人間は、完璧であり、完成されているが故に、成長できないし、変わらない人が多い気がします。


反対に、不完全な人間は、成長に関しては、なんかすごい印象があります。


犯罪


犯罪の本質



犯罪者の多くは、多分、なりたくて犯罪者になったわけではないのでしょう。


いつの間にか、犯罪者になっていたというケースが一般的ではないかと私は思います。


ここで、警察は、最近、暴力団排除に力を入れているようですが、これは無意味だと私は考えています。


暴力団に入るような人々というのは、多くの場合、幼い頃からの家庭的な問題が影響を及ぼしているのだろうと思います。


具体的には、幼い頃からまともに育てられず、暴力を振るわれ、犯罪を唆されてきたのだろうと推測します。


このような状況下に生まれついてしまった人は、かなりの確率で運命には逆らえません。


そして、こういう人達は、後々になって、自分たちを助けてくれなかった社会に牙を剥くというケースがほとんどです。


例えば、あなたが、物心つく頃から、性的虐待を継続的に受けており、近親姦を強いられた結果、親娘の間で5人の子(うち2人が幼いうちに死亡、他にも6人を妊娠中絶)を産む夫婦同様の生活を強いられていたとしたら、どうなっていたでしょうか。

尊属殺法定刑違憲事件


私は、このような状況下でまともに育つ自信は全くありません。(もちろん、現在もまともではありませんが...


しかし、苦しい境遇にいる犯罪者の多くは、なぜ自分がこのようになったのか。どうすれば犯罪を減らせるのか、ということをよく理解していると考えます。


つまり、犯罪者ほど、取り締まることに向いている人はいないということです。


大物犯罪者であればあるほど、業界を熟知し、どうすれば犯罪を減らせるのかを考えることができるでしょう。


私が思うに、世の中を良くしようとするならば、暴力団を排除するのではなく、仲間に引き入れてしまったほうが良いと考えています。


つまり、暴力団の幹部などを警察の上層部に配置するのが一番効率的だと思います。


これは、一般人の方にとっては、とても心苦しいものではあると思いますが、過去ではなく未来を考えるなら、こっちのほうが良いのではないでしょうか。


相手側も、警察の仲間(買収や脅迫などにより)を多く引き入れてるわけですし…。

女性の活用


1 わいせつ事件では、誤認逮捕や冤罪事件が多発しています。


これらは、だいぶ昔から言われていた問題にも関わらず、未だに問題解決のための有効な手段が使用されないことから、この文章を書くことにします。


2(1) 私は、わいせつ事件、具体的には、強姦、強制わいせつ、迷惑防止条例違反などの事件においては、女性を活用すると良いと思っています。


もちろん、ここでいう女性を活用するというのは、関係者全員を女性にするということです。


なぜかというと、女性を活用することで、二つの社会問題を解決できると考えるからです。


ここで、1つ目の社会問題は、被害者の保護です。


これらの犯罪被害にあった女性が、男性刑事や検事、裁判官の前で、重要な証言ができることは少ないでしょう。


密行的犯罪の多くは、目撃者が少なく、被害者の証言が非常に重要な証拠になってきます。


そして、重要な証拠である証言には、刑事や検事は、非常に細かな部分を聴取しなければなりません。


また、裁判では、証人として呼ばれることが予想され、証人尋問では、弁護側から様々な質問を受けるでしょう。これらは、裁判官の前で返答しなければなりません。


はっきり言います。


男性ばかりの司法関係者の前で、被害者が被害を訴える可能性は低いでしょう。


これでは、被害者を保護することは出来ません。


しかし、このような事件を、すべて非公開とし、関係者全員を女性にすることで、被害者が被害を訴えやすくなるのではないかと思います。


2(2) 2つ目の社会問題は、冤罪や誤認逮捕です。


男性を陥れようとする女性は多いです。


これらは、学校でも何度か見かけられる光景です。


気に入らない奴をセクハラ(ウソ)でチクってやろうか、とかそんなんです。また、気に入らない先生をクビにするために色々と企む女子もいたりします。


正直、そこら辺のおっさんが、女性の嘘を見破れるとは到底思えません。


この点、刑事や検事、そして裁判官が女性ならば、女性の嘘を見破れる確率が格段にアップすると思います。


女性の嘘を見破れるのは、女性だけではないでしょうか。


思うに、わいせつ事件をすべて女性で担当することで、冤罪や誤認逮捕はものすごく減ると思います。


3 これについては、多くの民間サービスならば、間違いなくやっているレベルのことだと個人的には思います。


なぜなら、今日の司法制度は、女性専用のマッサージ店を、男性店員だけで経営することと同じくらいにあり得ないことのように思うからです。


私は、司法にも、ユーザー(被害者、加害者)のことを考えて、様々な取り組みが必要だと感じています。


平和


軍隊の本質



私は、武器を持たないことでしか平和は実現できないと考えています。


よって、軍隊がなくなれば、平和になるのかという問題について書いていきたいと思います。


軍隊の本質は、貧困者、荒くれ者を押さえつけつために存在してる側面があると考えています。


同時に国防。一石二鳥です。


このことから必要とも思えます。


みんな幸せに、何不自由なく暮らせるというのは難しいからです。


あらゆる問題の根本には、貧困があります。


確かに、富を分配すれば、みんな幸せになることは可能なことのようにも思えるがそうではありません。


例えば、富を分配するやり方は、国際社会では、簡単には成功しないと思います。


金持ちは、税金を取られると、他国に移ります。


現代国家の最重要課題は、公共性と安全性、納税額をユーザー視点で考えることです。


そういった意味で、国家間の競争は激しさを増し、富の配分は相当難しいと考えます。


つまり、平和にするには、軍隊をなくす必要があり、軍隊をなくすには、貧困問題を解決する必要があり、貧困問題を解決するには、富を分配する必要があるという流れです。


しかし、富の分配が難しいということから、平和の実現も難しいことがわかります。


どうすればいいかは、個人個人がホントの幸せに気付いていくしかありません。


時間がかかる。一気に解決しようとしても、弊害は必ず出てくるでしょう。


富の分配を少しでも実現する方法としては、最初は、税金の使い方を変えるか、税金を払う人にその使い方を選択してもらうようにするのが良いと思います。


TV(テレビ)について



次は、TVについて書くこととします。


TVは、面白い番組も沢山あり、非常によく作られていると思います。


なぜ見る人が減ってきているのかというと、多くの人は、情報の受け手の地位よりも、情報の送り手として自分を見てもらうことの方が満足するからです。


よって、どうしても受け手の地位に固定化されてしまうTVの人気は減ってきています。


これはどうしようもない問題であり、この問題を解決しようとすると、TVがTVでなくなってしまうので意味がありません。


なぜこんな話をしたかというと、多くの人が望むことは、決まって「個人の尊重」という価値に還るからです。


よって、国の税金システムも、多くの人は、何かしら自分が関わってみたいと思うでしょう。


なぜかというと、政治家や公務員の税金の使い方に疑問があるからという理由が大きいと思います。


今後、多くの人は、世界を幸せにする方向で税金を使う国に集まるだろうと考えます。


国民はバカだけど、バカではない。最後には正しいものを選択すると思います。


努力


天才


天才とは、一体何なのでしょう。


私は、天才とは二つの方法を確実に使い分けることが出来る人を天才と呼んでいます。


世の中というのは、あらゆる事柄について、非常にバランスがとれているものです。


そして、多くの事柄には、二つのうち一つが正解となります。


ここで、二つの答えを個別に使い分けることで、正解率を100%にすることが可能です。


ちなみに、ここでの説明は、かなり比喩的な表現なので、気をつけてください。


ただし、伝えたいことが伝わればそれでいいと思っています。


私は、自分が信じない要素を使ってでも、伝えたいことが伝わればそれでいいと考えているからです。


これが私の個性なのでしょう。


話を戻します。


二つの答えを確実に使い分けることで、正解率を100%にすることが可能だという話でした。


しかし、多くの人は、そこまで器用ではないと思っています。


つまり、一つの方法しか使いこなすことが出来ないということです。


ここで、間違ってもいいので、常に一つの方法をとり続けることにより、正解率を一定の値に維持できることがあります。


多くの努力家で、素晴らしい才能を持った人達というのは、一つのやり方を貫き通すことが出来る人だと思います。


これにより、100%ではないものの、正解率を一定に維持できます。


反対に、一つの答えも持っていない人や、二つの答えを持っていたとしても、それを確実に使いこなすことが出来ない人というのは、上記のタイプの人よりも劣った結果になることが多いような気がします。


一つの答えも持っていない人というのは、努力がたりないことが予想されます。


一方、二つの答えを持っていたとしても、それを確実に当てはめることが出来ない人というのは、天才になろうとしていることが予想されます。


ここで、私は、努力をしないのも良くないし、天才になろうとしてもよくないと考えています。


一つの答えというのは、努力すれば、誰にでも持てるものだと思っているし、それだけを続けていくことは不可能なことではないように思います。


しかし、天才には、なろうとしてもなれるものではないと思います。


この点で、多くの人にとって、一つのやり方を極めることのほうが、100%の正解(天才)を目指すことよりも、賢いことのように思えます。


後天



天才というのは、先天的なものではなく、明らかに、後天的なものによって創造されるのだと思います。


想像するに、天才と呼ぶに相応しい人は、幼い頃から、頭のなかで、ミクロの訓練を積み重ねてきたのでしょう。


そうでなければ、説明できない事柄が多く報告されています。


しかし、このような考え方からすると、だれでも天才になれるようにも思えます。


なぜなら、私は、天才が後天的なものだと言っているからです。


天才には、なろうとしてもなれるものではないと言ってるし、天才は、後天的であるとも言っている。


したがって、これは、一見して矛盾した事を言っているように聞こえます。


ただ、私の考え方は違います。


この辺りの説明は、もう不要でしょう。省略します。


矛盾を解消するためのヒントとしては、「幸運」という要素があります。


この世は、偶然に支配されていると私は言ったことがあります。


ひとつ言えることとしては、この力を甘く見ないことです。


時間


世の中には、多くの時間を現すものが存在します。


例えば、年表とか、時計とかですね。


こういったものの多くは、時間というものを左から右に流れるものだと解釈しているように感じます。


しかし、私の場合、時間は下に向かうものだと考えています。この点では、重力と同じですね。


イメージとしては、落ち葉が地面に落ちるイメージですかね。


ここで、時間というものを語る上で欠かせない言葉の一つが「未来」という言葉です。


この言葉については、「全ては必然だ」、「運命は予め決まっている」等と言われることがあるので、私の認識について少し紹介していこうかなと考えています。


ここで、落ち葉が地面に落ちる光景を見た人は多いのではないでしょうか。


実は、落ち葉がどこに落ちるのかというのは、割と予測可能だったりします。


多くの落ち葉がそうでしょう。どの場所に落ちるのか、大体わかります。


しかし、風が吹いたりすると、本来予測したのと全く違う場所に落ちることがあります。


これは、多くの人の運命に似ているところがあるかもしれませんね。


確かに、多くの落ち葉が落ちる場所は、99%決まっているという側面があります。


しかし、自分の力だけではない外部でき要因、ここでは風のことを言いますが、そういったものが作用すると、1%の確率で、本来の運命とは違った場所に向かいます。


ここで、全ては起こるべくして起こったように、運命は予め決まっているようにも見えます。99%の確率でそうなのでしょう。


ただし、1%の確率で外部的要因によって、運命が変わることがあるというのが私の考えです。


私は、直近の未来はほぼ確実に変わらないが、遠い未来はよく変化しているように感じます。


なぜかというと、そこが同じ時間、同じ場所であっても変化していることが多いと感じることがあるからです。


この経験を通して私が得た答えとしては、近い未来は変えるのが難しいが、遠い未来はよく変わるんじゃないかなということです。


このことから、「全ては必然だ」、「運命は予め決まっている」というのは、ちょっと違うなーと思っています。


落ち葉と同じように、地面との距離が遠ければ遠いほど、本来落ちる場所とは違う場所に落ちる可能性が高まりますし、予測も困難です。


たしかに、物事が起こってから、「全ては決まっていた」というのは簡単ですが、当てるのは割と難しい...。


例えば、ボールを的(まと)に当てるゲームを想像してみてください。


的が遠ければ遠いほど、当てるのが難しくなります。また、的がすごく遠ければ、プロですら、ボールを投げても的に届かないでしょう。


直感などを絶対的な力のように考えている人も多いわけですが、どれほどの能力を持っている人間がいたとしても、届かない未来があると私は考えています。


さらに、落ち葉というものは、一直線に落ちるように見えて、実は回転しています。


ここで、強い運命ほど一直線に進むし、弱い運命ほどユラユラと落ちるものです。


ただし、細かい部分を見ていくと、強い運命であっても、ユラユラとしているものです。


この世の中に、真に一直線に進むものという事象は、存在しないように私は思います。


存在


小説のネタ的なものを書いてみました。以下より。


私は、この世を存在の世界と呼んでいる。


昔、記事でもそれとなく書いたので、この辺りを読んでくれている方は、飲み込みが早いと思う。


存在の世界というのは、無とか非存在というものは、存在しないという考え方だ。


すべてが存在で埋め尽くされているように感じるこの世界。


存在しないものこそ、実は存在しないと思っている。


...なんかギャグみたいになった。


死んだら無になると考えている人もいるが、個人的にはそれはありえない。


私達は、どこから生まれ、どこへ行くのだろうか。


私達は無から生まれ、無に還るのだというのが、死んだら無になる説の考え方だ。


個人的には、私達は、この星から生まれ、この星に還るのだと考えている。


では、星はどこから来て、どこに行くのかだが、星も同じで、この宇宙から生まれ、この宇宙に帰るのだと思う。


そして、宇宙も同じく。


話が遠ざかったので、話を近づけよう。まあ、正確には、遠ざかってもいないし、近づいてもいないのだが、これは非常に分かりにくい表現なので、やめておくことにする。


私達は、この星から生まれ、この星に還るのだという話だった。


根拠は、いくつかあるが、ひとつは、生者よりも死者の数のほうが多いからだ。


私達は、圧倒的な数の死者の中、生者として今現在に存在している。


これは、ありえない確率であり、生命の歴史が続けば続くほど、私達が存在していられる確率は、さらにありえない確率となる。


しかし、私達が生まれ変わっているのだとしたら、そう驚くべき数字でもない。


現存することを、単なる偶然であり、幸運であり、特別であると考えるか、反対に、これは必然であり、幸運でもなく、特別でもないと考えるかで意見がわかれるところではあろう。


ここで、私の場合、後者の価値観を採用している。必然説だ。


さて、生命が生まれ変わるとして、何が良くて、何が良くないのかというのは、割と簡単な話だと思う。


良くないことの一つとしては、クローンだろう。


大量に生産され、大量に殺される生命が人間により作り出されているのだとしたら、それは、明日の自分たちの痛みだと考えたほうがいいかもしれない。


死の直前というのは、本当に嫌な感じであり、苦痛であると思う。


言葉では説明しづらいが、「ゴーッ」という音が鳴り響き、「ギュッ」という感じだろうか。


正直、こういう嫌な感触をあまりに多く、想像できないほど多く体験することは、いいことではないだろう。


たしかに、自然では、あらゆる生命が食物連鎖により殺し、殺されを繰り返している。


しかし、これは、非常に緩やかで自然なものだと思うし、過剰なほど繰り返されるという感じではない。


反対に、人間が作り出す状態は、非常に急激で、半端ないほど過剰な感じがする。


この点、私は、自然状態をゆるやかなグラフ、人間が作りだした状態を急激なグラフでイメージした。


話は変わるが、もっと良くないのが、人間のクローンだろう。


人間には感情があり、そのため、表現できることも多いが、苦痛も多い。


もし、人間のクローンを作り、それを使役(しえき)するのであれば、私達の大半が生まれ変わった後、クローンとして苦痛を繰り返す羽目になるだろうと推測する。


かんべんしてくれ。


個人的な理想を述べさせていただくなら、私はゆるやかなグラフのほうが良いと思っている。


そして、これは、人間以外の生物にも配慮したほうが良いということでもある。


次に、人間社会の理想を言うなれば、できる限り偶然に支配されない社会が良いと思う。


今現在の人間社会では、どのように生まれるかで、人生が決まってしまう傾向にあると思う。


ただし、この傾向はだいぶ緩和されて、良くなってきていると思うので、素晴らしいことと思う。よくやった。


しかし、未だにかわいそうな目に遭う者が絶えないという部分もある。


生まれ変わりを真とした場合、50%の確率で悲惨な人生が待っているというのは、個人的には良い数字ではないと考えている。


人間が、今現在の欲望を満たすことに終始する限り、この数字が改善されることはないだろう。


かわいそうな目に遭う者達は、明日の自分達なので、このことを理解すると、少しは世の中良くなるのではないかと私は考えている。


まあ、私は、人類が、この宇宙を支配する偶然という要素を、この星の中だけでも克服する日が必ず来ると信じているので、割とどうでも良い指摘かもしれない。


さて、しかしそのための準備は必要であり、私としても、そろそろ準備をし始めようと思っている。


といっても、実は私にとって生まれ変わりが真であるか、偽であるかという問題はどうでもいい問題であったりする。


実は、私は、かわいそうな目に遭う者達を見たくないだけなのだ...。


という小説のネタでした。では。


まあ、ネタと関連して、生活上、いいかなーと思うことを書いていておきますね。


この世の中は、存在の世界だと考えているので、私は、ただ自分のそれを確認するだけで良いと思います。


念仏を勧める人もいて、それも良いとは思うのだけど、念仏はごまかしに過ぎないと個人的にはそう考えています。


何がごまかしなのかというと、念仏というのは、何かを唱えることで、それ以外のことを頭から締め出そうというものです。


しかし、無になったと思った次に来るのが存在の実感ですので...。


魔力



中二病の自分


今回は、強い魔力を持つ人物が、どういう人物かというのを考察してみます。


はい。中二病です。私にとっての中二病全開で行きます。


私は、割りと、スポーツとかできる方ではないかと自分ではそう思っています。


サッカー部でもないのに、リフティングを100回以上できたり、卓球をすれば、卓球部の人に勝ったり...。


ちなみに、サッカーについても、卓球についてもルールすら知らない初心者であり、あまりスポーツには興味が無かったりします。


ただ、初めてのことでも、割りとできることがあるように感じます。


例えば、卓球の試合をした時など、相手の恐れ(恐怖ともいうべきか)を感じ取ることができると、勝てる確率が高いですね。


ここで、なぜ相手の恐怖を感じ取ることができるのかというのは、自分では上手く説明できない感覚だったりします。


したがって、私は、自分でうまく説明できないことを魔力とか、魔法とか呼ぶことがあります。


たしかに、こういう感覚は、単なる偶然が重なって発揮されただけなのかもしれないし、試合に勝てたこと自体が単なる偶然かもしれません。


しかし、私は、「偶然」という言葉があまり好きではありません。


このことから、私は、「偶然」という言葉についても、魔力とか、魔法とかいう言葉に変換することがあります。


なぜかというと、理解できないこと、説明できないこと全てを「偶然」という言葉で片付けてしまうのは、少し簡単すぎるような気がするからです。


さて、話を戻しましょう。


卓球で私と試合した人は、初心者に負けることを何より恐れたのです。


ここで、何かを恐れる人は、多くミスをすることを私は知っています。


よって、私の戦略としては、とにかく相手のミスを誘うことを優先します。


そして、しばらくミスを連発した相手が次に取る行動としては、ミスを恐れ、慎重なプレイになります。


したがって、この時に、スパーン!と強いショットを打ち込むことで、相手は更に混乱し、恐怖します。


慎重なプレイでは、ボールが甘く入ってくることが多いのです。


このように、実力で言えば、圧倒的に私のほうが劣っているわけです。


しかし、相手の恐れを感じ取ることで、実力がない者であっても、試合に勝てる確率を上げることができます。


ただし、このようにしても、実力が劣っているので、試合は五分五分という状況になることが多いです。


よって、最後の瞬間だけは、全てを忘れ、全力でやるとよいです。


魔力が弱い自分


話は変わりますが、私の魔力は、それほど大したものではありません。


今度は反対に、私が従兄弟(いとこ)の小学生と試合した時の話をしましょう。


その子には、私をはるかに上回る魔力を感じましたね。


そして、何度か試合するうちに、私のほうが負けるようになってきたのです。


なぜかというと、私は、小学生相手に負けることを恐れたのです。


さっきとは全く逆の立場ですね。


私は、ミスを連発し、慎重になれば、スマッシュを打ち込まれるというパターンに陥ってしまいました。


まあ、その子が強かったというのもあるでしょう(ただし、私と同じ卓球の初心者)。


ちなみに、強い魔力を感じたその子がどんな子なのかというと、とにかく言葉を発しない子でした。


ただし、暗いという感じでは全くなく、楽しければ笑うし、意味がわからなければ、困った表情になるし、というそんな感じの子です。


思うに、黙る人、言葉を発しない人というのは、割りと、魔力が高いように感じることが多いです。


しかし、私の持つ魔力というのは、それほど大したものではなく、微々たるものです。黙りませんしね...。


また、この魔力量は、ほとんどの人に劣るものだろうと思います。


なぜなら、こういった力は、知ることで確定される側面を持つからです。


多くの人は、こういった力があることを認識していませんし、知りません。


したがって、多くの人の魔力は、私のそれよりを遥かに大きいことが多いのです。


皆様も、その力、開放させてみるといい...。


ポイント


黙っている人のほうが魔力強い。よって、ブログを書く人、例えば、私なんかは一般の人よりも魔力低いと思っている。何もしないことも大切。


ちなみに、今度あった時には、卓球少年に下克上しようと考えていますよ。人間というのは、力の差を魅せつけられても、それでも抗おうとするものですからね。この点で、力で押さえつけようとする行為がいかに愚かなことなのかがわかります(笑)


丁寧


ランニングスタイル


今回は、非常に地味なテーマである私の筋トレ、ランニングスタイルを紹介します。


私は、毎日、筋トレとランニングを日課にしているのですが、特徴的なスタイルがあります。


それは、「ひたすら丁寧に」というものです。


では、「ひたすら丁寧に」というのは、どういうことなのか。


筋トレもこのスタイルで行っているのですが、ここでは、ランニングを例に解説してみます。


私は、毎日ランニングしていて、膝が痛くなったことがあります。


そして、膝が痛くなったことをきっかけに、その日から走り方を変えてみようと考えました。


具体的には、膝への負担を最小限に抑えるように走り方を変更したのです。


現在では、膝への負担を最小限に抑える走りは、以下の二点が重要だと考えています。


①足を動かす際、地面との距離をできる限り小さくすること。簡単には、地面ギリギリを目指し、滑るように走ることを目指します。

②衝撃を踵で吸収すること。簡単には、着地を必ず踵に設定します。


そして、この二点のルールを守り、ひたすら一歩一歩丁寧に行うことを目指すのが、私にとってのランニングです。


よって、速く走るというのは、私にとっては、本当にどうでもいいことであり、上記の2つをひたすら丁寧に作業することが、私のランニングスタイルです。


しかし、どれだけ丁寧にやっても、毎日5歩くらいは、ミスがあります。


なぜなら、どんなに整備された道にも、意識されないほどの凹凸が存在していたり、曲がらなくてはいけなかったりするからです。


私の場合、こういう場所で、ミスが多いです。


ちなみに、ミスというのは、足のあげ方が地面ギリギリではなかったり、踵からの着地に失敗してしまったりすることを言います。


また、自動車やその日の天候などの外部の要因などもミスにつながるきっかけになります。


完全に平らな道を、まっすぐ走るだけなら、とても簡単です。


しかし、現実はそうでありませんので、完璧な走りができたことは、今まで一度もありません。


毎日5kmほどの距離なのですが、丁寧に、ひたすら丁寧に走るのは、かなりのエネルギーを要するものです。


客観的に見ると、妙に力んだ、亀みたいにノロい走り方です。


速く走ろうと思えばいくらでも速く走れますが、個人的には、ひたすら丁寧を目指すのが、私の筋トレ及び、ランニングスタイルだったりします。


この点、丁寧にやりさえすれば、回数や距離は関係ないと考えている人もいるみたいです。


しかし、私は、そうは考えていません。


筋力というのは、年齢とともに急激に低下してしまうものらしいので、やはり、一定の回数を丁寧に行うのが良いかと思います。


ちなみに、回数が多すぎても、丁寧にやる場合、限界が早いです。体に大きな負担がかかる回数は実行できません。


よって、多少の回数が多くても、丁寧にやる場合には、問題ないといえば、問題ないとは思います。


しかし、私は、健康にいいのは、何もしないことだと考えています。


よって、ランニングも基本的に、健康によいものではないのです。


体に負担がかかり、やり方によっては、膝を痛めてしまうかもしれません。


このように、健康に良いかどうかは、やり方次第という面があります。


また、それは、他の分野、例えば、食べ物なんかにも当てはめることができると思います。


よく言われるような、豆乳は健康にいい、納豆は健康にいい、運動は健康にいいなどということは、絶対にないと個人的には思っています。


私は、そもそも何もしないことが健康に一番良く、老化も抑えられると考えています。


なので、この点は注意しないといけないのかもしれません。


健康という言葉



健康という言葉は難しいです。


私が現在考えている答えは、精神的にも身体的にも何の負担もかけないこと、つまり、何もしないことが健康に一番だというものです。


しかし、それでは、筋力が衰えることもあるだろうし、精神的にも強くはなれないでしょう。


そこで、筋トレやらランニングをして、筋力を付ければいいのですが、やはり、活動するということ自体、体への負担になるし、それは老化にもつながるように感じます。


また、食べ物についても、何も食べないことが健康に一番良いとは思うのですが、それでは、生命を維持できないでしょう。


何もしないのが健康に一番良いという基本姿勢は大切だと思いますが、それだけでは正しくありません。


現在、老化の主な原因は、糖質と脂質だと医学的に考えられています。


そして、私もこの説がかなり的を射ていると思っています。


したがって、これらを摂取しなければ、老化を出来る限り抑えられるでしょう。


しかし、全く摂取しないことにも危険が伴いますので(寝たきりなど)、非常に難しい問題だと思います。


要するに、これらは、生命維持を優先すれば、健康にはなれないし、健康維持を優先すれば、生命維持ができないし、という関係にあるのではないでしょうか。


個人的な答えとしては、今のところ、上記のようなものになっています。


よって、私は、健康とは、ギリギリで生命を維持している状態のことだと考えています。


しかし、これについても、個々の目指すべきものが異なることによって、捉え方に違いがでてくるものだと思います。


なので、健康という言葉は、非常に難しいです。


何もしないこと


何もしないことが健康によいと考えている理由としては、一つは活性酸素ですかね…。


人は活動することにより、何もしない時よりも呼吸が多くなってしまいます。


そして、運動すればさらに呼吸が多くなります。


呼吸が多くなることにより、活性酸素がより多く体に取り込まれます。


ここで、私は、筋力の問題と健康の問題を分けて考えています。


つまり、筋力の衰えを防ごうとすると、運動しなければならず、運動すると、健康が損なわれるという論理です。


確かに、健康とは、適度な食事と適度な運動と適度な睡眠とよく言われ、総合的に捉えるのが正しい捉え方なのでしょう。


しかし、個人的には、これは何も言ってないことと同じだと考えていますので、今回は自分なりのアプローチで考えてみました。


また、何もしないということは、食べないということでもあり、食べないということは、糖化や酸化を防ぐことでもあります。


ちなみに、食べると、呼吸、早くなりますよね。意識しないと分からないことではありますが...。


裁判



はじめに



今回は、社会のシステムの一つである裁判について個人的な考えを書いていきたいと思います。


というのも、裁判の結果をあたかも真実だと誤解している人が多いような気がしたので、書いてみることにしました。


ちなみに、私の意見というのは、単なる初心者の考えですので、あまり当てになるものではありません...。


では、行きましょう。


裁判所の役割



まず、裁判というのは、真実を見つけるためのものでもありませんし、その結果が真実であるとも限りません。


では、そもそもなぜ裁判というシステムが存在するのか、その理由から説明していきましょう。


世の中には、様々な争いが存在します。


例えば、「AがBの持ち物を盗んだ」といったものを想像してみてください。


ここで、悪者は、明らかにAですので、BのAへの報復を許しても良さそうに思います。


しかし、それでは秩序を維持できません。


なぜなら、報復が行き過ぎていたり、または、怒りで冷静さを失った人は、犯人を間違えていたりするかもしれないからです。


この場面では、「AがBのチリ紙を1枚盗んだ。しかし、その行為は、Cに命令されて実行したものだった。にも関わらず、Bはそのことを知らず、Aへの報復として、Aを刺殺する」という例を想像してみてください。


この場合、Bの報復行為は、やり過ぎな気がします。また、Aを操っていたのは、実はCだったので、悪いのはCであるとも言えます。


極端な例えですが、ひとつの事件にも、多くの背景、多くの関係者が存在している可能性は十分にあります。


よって、最初に説明した「AがBの持ち物を盗んだ」という事実だけでは、簡単に判断してはならないし、被害者の勝手な報復行為を許してもならないということは理解できるのではないかと思います。


そこで、話は最初に戻ります。


具体的には、世の中には様々な争いが存在するということです。

しかし、先程も言ったように、このような争いを放置するのは良くないし、また、被害者の勝手な報復行為を許していては、秩序を維持できないような気もします。


よって、世の中に存在する争いごとを終結させるシステムが必要になります。


簡単に言うと、これが裁判所の役割だと私は考えています。


最後の手段



では、どのように争いごとを終結させるのが良いのでしょうか。


実は、世の中の争いごとの大半は、当事者が納得できれば、それで解決するものだったりします。


したがって、争いごとを解決するには、基本的に、当事者が納得できる形を探るのが得策といえるでしょう。


また、裁判所は、他にどうしようもなくなった争いごとを終局的、最終的に解決(確定)するものでもあります。


このことから、裁判というのは、あくまで最後の手段という認識が一般的だと私は思います。


第三者



しかし、それでも、他にどうしようもなくなった争いごとというのは、世の中に存在します。


すると、裁判でしか紛争を解決できないため、裁判になることがあるのだと思います。


ここで、裁判を考えていく前提としては、「何が真実であるか、分からない」という視点が非常に重要になってきます。


なぜかというと、何が真実かがはっきりしていれば、そもそも裁判をする必要はないということです(正確には違いますが、わかり易さを重視するため、このような表現を使用しています)。


よって、裁判というのは、「何が真実であるか、分からない」という状態から開始されるものだと理解するのが良いのではないかと個人的には考えます。


では、なぜ裁判所、ないしは裁判官は、「何が真実であるか、分からない」のでしょうか。


その理由は、裁判所の裁判官が人間だからでしょう。さらにいえば、第三者だからです。


当事者同士ならば、何が真実であるか、分かっている状況はもしかしたら存在するかもしれません。


しかし、当事者ではない第三者の裁判官は、何が真実であるかが分からない状態が普通なのです。


また、神様でもない限り、真実を見極めるのは、非常に難しいことなのでしょう。

この点、何が真実か分かっている当事者、関係者が裁判をやればいいという考え方をされる方がいるかもしれません。


たしかに、当事者、関係者なら何が真実であるか、知っている確率も高いので、真実を見極めるためには、当事者が裁判をやったほうが適切であるようにも思えます。

しかし、それで公平な結論が出せるかというと、そうではありません。


なぜなら、何が真実であるかを知っているということは、自分の不利益になることは進んでは行わないということでもあるからです。


よって、現実の裁判では、もし担当する裁判官が、事件の当事者、関係者だった場合、当該裁判から外される仕組み(除斥、忌避など)が存在します。


話が長くなったので、一旦、話をまとめましょう。


裁判官は人間だし、第三者なので、何が真実であるか、分からないという前提が存在します。


しかし、もし裁判官が第三者でなければ、裁判の公平性が害される恐れがあり、それも良くないということです。


立証責任



では、「何が真実であるか、分からない」という状態の中、どのように争いを解決していけば良いのでしょうか。


この点、現在の裁判では、立証責任を原告に負担させることで、裁判が進められることになります。


ちなみに、立証責任(証明責任、挙証責任)というのは、簡単には、真実を証明することを言います。


そして、真実を証明するというのは、何が真実であるか、他人にも分かってもらえるようにすることを言います。


ここで、原告は、この立証責任を負担しなければなりません。


立証責任の負担というのは、裁判にある3つの状態のうち、その2つの状態で不利になることを言います。


裁判では、3つの状態が存在します。


具体的には、①真である、②偽である、③分からない、という状態です。


そして、原告は、②、③の状態を負担しなければなりません。


分かりにくいですね...。


立証責任の負担は、表にしてみると、分かりやすいです。


分からない


表では、裁判で原告の主張が認められるところに◎をつけています。


◎が付いているところは一つだけですね...。


ここで、②偽である、③分からない、という2つの状態で裁判は原告の負けになってしまいます。


つまり、何が「真実であるか分からない」という状態にしてしまえば、被告の勝ちになるわけです。


このことから、裁判の結果が必ずしも真実や正義であるとは言えないということは理解できたのではないかと思います。


では、なぜ裁判では、立証責任を原告に負担させるのでしょうか。


これは、裁判所が「疑わしきは、罰せず」という考え方を採用しているからです。


では、なぜ裁判所は「疑わしきは、罰せず」という考え方を採用しているのでしょうか。


これは、簡単に言うと、憲法の価値観が具体化されたものだったりするのだと思います。ただし、この辺りの説明は、長くなりそうなので、この省略することにします。


今回言いたかったのは、裁判はあくまで争いを解決するための機関であって、必ずしも真実や正義というものを実行する機関ではないということです。


もちろん、裁判には、真実や正義というものを求める法律(規則)が幾つも存在します。


しかし、裁判所は必ず真実や正義を実現してくれるだろうと考えている人が多いような気がしましたので、今回は、自分の思ったことを適当に書いてみました。


宗教


あらゆる宗教の目的


宗教というテーマは、随分前からから書こうと思っていて、放置していたことの一つです。今回は、ちょっとだけ私の考えを覗いてみます。


私が知るかぎりでは、有名所の宗教は、すべて、たったひとつの目的のために存在していると私は考えています。


ここで、有名所の宗教とは、例えば、キリスト教やイラスラム教、仏教などを指します。


では、なぜそれぞれの宗教の目的が同じであるということがありえるのでしょうか。


それは、目的が同じであっても、そこに辿り着くまでの道のりは無数に存在していることが多いからです。


例えば、目的地を東京という場所に設定したとします。


しかし、その目的地にたどり着く手段は、無数に存在します。また、これは、各々が現在居る場所によっても異なります。


具体的には、個人が既に、東京の近くに居る場合は、車や自転車、場合によっては徒歩という手段が適切でしょうし、もし海外に居る場合は、飛行機や船を使うのが適切です。


このように、宗教的な問題を考える際には、必ず、目的と手段、そして個人という要素に重点を置いて考えていく必要があると私は思います。


なぜこれらに重点を置いて考えていく必要があるのかというと、それは、宗教の目的が関係してきます。


では、宗教の目的とは、一体何でしょうか。


それは、「人々が互いの考え方を受け入れて、仲良く、平和な社会を築いていくこと。そして、すべての個人が幸せであること」です。


もちろん、上記は、私が宗教的な各教えから推測したものであって、公式的に公表され、発表されているものではありません。


なぜ、宗教の教えでは、このような目的が公表されないのかというと、それは、目的を公表した時点で押し付けになってしまう危険があり、それ自体が、上に挙げた目的と矛盾するからです。


また、過去の歴史に目を向けてみると、公表しないほうが世間受けしやすいという思惑もあったのかもしれません。


宗教上の神との対話と想像



では、なぜ、おおよその宗教の目的が「人々が互いの考え方を受け入れて、仲良く、平和な社会を築いていくこと。そして、すべての個人が幸せであること」と考えるのかを説明していきます。


これについては、宗教上の神と崇められる人物に質問をし、答えを想像してみるとイメージしやすいのではないかと思います。


ここで、例えば、イエス・キリストに「他の宗教について、どう思われますか?」と質問してみることにしましょう。


思うに、この質問に対し、イエスは、「他の宗教は全て劣悪で、どうしようもない。私の考え方だけが正しいのだ!!」と答えるかというと、そういった答えが返ってくるなんてのは全く想像できません。


私が想像した答えは、簡単に言うと、「他の宗教はどれも素晴らしい。しかし、私はこちらの考え方のほうが良いと信じます」という趣旨のものです。


上記の答えは、もしかしたら、各宗教のすべてを物語っているのかもしれません。


上の答えは、私が考える目的にとって、一番重要な2つのことを体現しているからです。


では、宗教の目的にとって、一番重要な2つのこととは一体何でしょうか。


それは、①他人の考え方を受け入れること、②自分の確固たる信条を持つこと、です。


そして、あらゆる宗教上の教義や儀式などを見ていくと、上に挙げた2つのことを実践するもののように感じます。


間違った宗教



よって、私にとって間違った宗教は、一つしかありません。


それは、他人に自分の考え方を押し付ける宗教です。


なぜなら、宗教にとって一番重要なことは、「他人の考えを受け入れること」だからです。


したがって、宗教とは本来、他人に押し付けるものでも、他人から押し付けられるものでもありません。


この点を勘違いしている人は、本来の宗教の目的から、その下にあるすべての手段、教えをねじ曲げて解釈してしまったのだろうと私は思います。


私は、本来の宗教とは、「教えてもらえませんか?」、「はい。いいですよ。一緒にやりましょう。」という過程で成り立つものだと考えています。


子供への布教



以上の考え方から、子供への布教についてもどうすればいいのかは明白となります。


宗教家が子供に教えてあげられることとしては、ただ一つ、「世界を見て回り、色々な考え方があるのを知りなさい。そして、その中で、自分が信じられるものを見つけなさい」ということでしょう。


子供への布教というテーマについては、実は、最近まで解説することを予期していませんでした。


しかし、アニメとかで宗教家の子供がかわいそうなことになってたのを見たので、補足しておくことにしました。


宗教の認知力



有名な宗教は、かなり多くの人間に認知されているということもあり、大きな力を持っています。


しかし、歴史を見ると、その認知力を利用しようとする人々がいるのもまた事実です。


例えば、日本では、神教が国教化され、他の宗教は冷遇された時代があります。


これは、国としての統率力を強め、国民への支配力を高めるために実行されたことだと言われています。


また、戦争に宗教を利用することには大きな意味もありました。


それは、兵士たちの恐怖を克服するための意味です。


どの国の人々でも、兵士になって戦うとなると、恐怖を感じるのが普通です。


そして、恐怖を感じた兵士を道具にして戦っても、勝ち目は薄いのもまた事実です。


よって、兵士の恐怖をいかに取り除くかということは、国家的な戦略の一つとして長年研究されてきた課題でもありました。


そして、兵士の恐怖を取り除く一つの方法として、広く認知されている宗教を利用することが考えだされました。


教えでは、「勇敢に戦ったもの、戦死したものは名誉ある死を迎えられ、永劫に讃えられる、素晴らしい世界が待っている」というように、宗教でよく言われる死後の世界を政治家達の都合のいいように改変、解釈されてしまった例がたくさん存在します。


以上のようなこともあり、宗教は、その認知力故に利用され、悪用されたりすると怖い一面もあるという点は、広く認知されて欲しい気がします。


自分にとっての宗教


少し懐疑的な私



適当なことを書き綴ってきましたが、最後に、自分にとっての宗教をちょっとだけ覗いてみたいと思います。


私は、正直、宗教については全く詳しくありません。


それに、お盆などの行事についても、すごく懐疑的です。


具体的には、日本の宗教には、一定の職業に就く者に利益をもたらすためだけに考え出された行事もいくつかあり、その一つがお盆だと考えていたりします。


だって、私の両親、おじいちゃん、おばあちゃんに、何のためにお盆があるのか、お盆とは一体何なのか聞いたところ、返事が返ってこないです。どうやら、自分が行っている行事の意味を全く理解していなかったみたいです。


ちなみに、この傾向は、詐欺に合う人に多く見られる傾向のようです。


よって、日本的宗教には、少し懐疑的な自分がいます。


ただし、断片的な情報や伝聞から言うと、私には、キリスト教的なものの考え方が合っているような気がしていますし、仏教的な儀式も幾つか思うところがあるので、宗教的なものを全部否定しているわけではありません。


少し信仰的な私



ここで、私が良いと思った仏教的な儀式の一つを紹介していきたいと思います。


私が良いと思った仏教的な儀式の一つに、「朝一番に汲んだ水は神様に捧げる」というものがあります。


これは、2つの点から良い、自分に合っていると判断しました。


1つ目は、「体」に良いのではないかという点です。


実は、朝、蛇口から出す水は、夜の間中、蛇口の縁に留まっていた水なわけです。


それを自分でゴクゴク飲むよりも、神様に捧げたほうが、自分の体にとってプラスなのではないかと思います。


ただし、このような理由なら、神様に捧げる必要はなく、朝一番に、しばらくの間、水を垂れ流したほうが合理的ではないかと考えることも出来ます。


しかし、これは、「心」に良くないのではないかと私は考えています。


これが「朝一番に汲んだ水は神様に捧げる」という儀式の2つ目の良い点です。


実は、資源を無駄遣いしたり、食料を粗末に扱ったり、物を乱暴に扱ったりすると、心が侵食されるのを感じることがあります。もちろん、悪い方向への侵食です。


よって、無駄になるはずの水を神様に捧げることで、これらの弊害を防ぎ、かつ、あらゆるもの(水など)に感謝するきっかけにもなるので、当該儀式は、非常に意味があるものだと考えます。


意味があるというのは、自分の「体」にも、「心」にもプラスになるということです。


以上にように、仏教にも、私が感心する教えがいくつかありますので、それほど仏教に反感しているわけではありません。


個人的には、このような自分が出来る範囲の小さなことから考えて、始めていけたらなと思っています。


そんなこともあり、私にとって宗教とは、最も小さく、個別に考えていくものがそれだったりします。


数字


【インタビュー】クックパッドのUIデザイナー:「エンジニアの仕事が0を1にする仕事なら、デザインは1を100にする仕事 」という記事を読みました。今回は、この記事への感想を書いて行きたいともいます。


数字の問題


まず、上の記事のタイトルで挙げられている数字に着目してみましょう。これを数字に置き換えると、エンジニアは+1、デザイナーは+99となります。すごい差ですね。正確な数字に直すとこのようになります。よって、このように考えた方も多いでしょう。デザイナーはエンジニアよりも圧倒的に優れている...と。


実際の問題


しかし、大事なのはそこではないと私は考えます。大事なのは、この記事を書いた人が何を言いたいのかです。


思うに、この記事を書いた人が言いたいのは、エンジニアは何もないところから物を作ることができ、デザイナーは作られたものを売れるようにできるということでしょう。


その先へ


ここまでが、大体の人が考えるところだろうと思います。つまり、エンジニアとデザイナーの役割分担は大切だよということです。これについては、そりゃそうだなぁと納得する人が多いかと思います。とすれば、この記事を書いた人は正しいということになります。


しかし、私は、その先も考えてしまう人です。はっきり言って、嫌なやつです。その理由は、前にもこのブログに書いたかと思いますが、私にとっては、性別や社会的地位、年齢、その人が有名人か否かというのは、どうでもいいことであり、私が見るのは、その人がどういう人間か、その一点だけを気にしてしまうからです。


よって、この記事を書いた人がどのような人か、どのような考えを持っているのかというのを少しばかり想像してしまいました。もちろん、私の予想は当たりませんし、想像の結果が意味のあるものとは到底思えませんが、一応、考えてみます。


文章からは人が見える


私は、おおよそ人の行動には本性が出るものだと考えています。文章も行動の一つなので、文章にもその人がどういった考えを持っているのかが分かることが多いと思っています。当たり前だろと言われてしまいそうですが、これは書かれていること以外でということです。文章には、文章で書かれていること以上に、見えるものがあるというのが私の考えです。


記事のタイトルでもそうです。タイトルを考える時間がながければ長いほど、その人が出ると思います。主に、文章(記事のタイトルも含める)というのは、読んでくれた人を説得のためのものであり、「エンジニアの仕事が0を1にする仕事なら、デザインは1を100にする仕事 」という記事についてもそうでしょう。では、誰を説得する必要があるのか。


もちろん、一般の読者(ここでは一般人のこと)ということになりますが、この記事のタイトルからも分かるように、説得しなければならないのは、一般人の他に、エンジニアとデザイナーということになります。


デザイナーに関しては、100点中+99点をもらっているので、それだけで説得は十分でしょう。あとは、+1点しかもらえなかったエンジニアの方を説得する必要がでてきます。


よって、「エンジニアの仕事が0を1にする仕事なら、デザインは1を100にする仕事 」という記事では、エンジニアがいかに何もないところから素晴らしいものを生み出すかが書かれていますし、その重要性についても書かれています。


しかし、先程も言ったように、文章にはその人が何を考えているのかが意図せずとも見えてしまうようにできています。例え話についてもそうです。確かに、これがすべてに当てはまるかというとそうではありません。しかし、そういったことが多いように私は思います。


ここで、私が想像してしまったのは、いくらエンジニアが素晴らしい機能を持ったものを作り上げても、デザインが良くなくては今の時代売れないという考えです。(当該記事を書いた人の考えではありませんし、そんなことも言われてないです)


ただ、文章においては、意図せずして人が見えることがあるかもしれないというのがここで言いたかったことです。


個人的な考え


では、本当に上のような考えをお持ちの方がいるとして、それは悪いことなのかというと、それは、全く違います。私は、その人がどのような考えを持とうが、それは批判の対象にすべきではないと考えていますし、そんなことは自分にとってどうでもいいことです。


私は、エンジニアでもなければ、プログラマーでもありません。パソコンのこともよくわかりません。しかし、今回は、果たしてエンジニアは何もないところから作るのかという点について考えてみたいと思います。


「エンジニアの仕事が0を1にする仕事なら、デザインは1を100にする仕事 」という記事では、エンジニアの仕事は、0を1にする仕事だと書かれています。無から有を生み出す仕事だということです。もちろん、これは単なるたとえ話であって特に意味があるわけではないと反論されるでしょう。


しかし、私は、エンジニアが何もないところからモノを作るかというとそうではないと考えています。エンジニアもデザイナーと一緒で、ほとんどの場合、知識と知識の組み合わせでモノを作るのだと思います。また、アイディアについても、何もないところから湧いて出るのではなく、今まで見てきた数多くの作品などの影響を受けて作り出されるものであると私は考えています。無から有は生まれません。宇宙の誕生というような壮大なテーマでもない限り、私はそのように考えます。


例えば、エンジニアが書くコードでもそうですが、プログラミング言語という元からある言語を使って書くことがあります。いちから言語を作ってということではありません。もちろん、自分言語を作って作業している人もいます。しかし、それをパソコンを使って作っている以上、これについても0から生み出されたものではないです。


よって、エンジニアはなにもないところからモノを作る仕事ではないと考えます。


そして、私は、デザイナーが1を100にする仕事なら、エンジニアも1を100にする仕事なのだと思います。逆も同じで、デザイナーが0を1にする仕事なら、エンジニアも0を1にする仕事です。これは、上で述べた主張と矛盾しそうですが、この場合、デザイナーとエンジニアが同じ位置から出発するため0の定義が変更され、よって、このように解するのだと考えてくださればと思います。


ちなみに、上で言う定義が変更された0とは、おおよそ「人に喜んでもらえる」という内容になります。通常、出発点は両者そこからだと考えるからです。人に喜んでもらうために、デザインするし、プログラムを作る。そして、どちらかが欠けても不満を持つ人が予想されることから、より多くの人に喜んでもらうためには、両方大事ということになります。


電源



鳥、好きですね。可愛いし。


で、このブログのアイコン、鳥なわけなのですが、中二病も入ってか、正確には不死鳥をイメージしています。


この不死鳥、一応、意味ならありますね。


その意味とは、「私は生まれ変わり、転生とかそんな感じのものを信じていたりするよ」という自己主張だったり。


そういえば、バリエーションがありますね。赤色とか青色のとか。


一応、それぞれに意味はありますね。どうでもいい話ですが。


個人では赤いの使ってます。ブログは青いの使ってます。


例えば、青いのは、「phoenix-power」といいます。


日本語だと「不死鳥 | 力」みたいな感じです。


ただ、この場合、powerは力を意味しません。


「power」、これは、パソコンの電源ボタンを意味しますね。(誰もわからないでしょうけど


ちなみに、おなじみ電源ボタンは数字の「0と1」を表現していたりします。


で「phoenix-power」の場合、1が鳥で、0が背景の丸いやつですね。背景というのは地球みたいなやつのこと。


あ、そういえば、このページもブログに分類しているので、「phoenix-power」使ってましたか。


この文章はスマホのメモ帳かVimで書いているので、忘れてた...。


さて、どうでもいい情報でしたね。はい。ごめんなさい。


心理



この前、こんな感じのタイトルのアニメを見た。

http://ngnl.jp/


このアニメ、そこそこ面白かったので、少しだけ考察する。


まず、このアニメは、ゲーム好きの主人公たちが、ゲームですべてが決まる世界に飛ばされて戦うというお話のようだ。


実は、世の中にあるゲームというのは、そのほとんどが相手の心を読めれば、勝てるものだったりする。


よって、世の中に存在するあらゆるゲームでは、激しい心の読み合い合戦が繰り広げられる。


個人的には、知能戦というよりも心理戦という印象だ。


ただし、このような事実を認識していない人は、このような事実を認識している人には絶対に勝てないということが多いように思う。


しかし、単に相手の心を読めれば、ゲームに勝てるかというとそうではない。


ゲームによっては、機械的な計算処理というのか、機械的な動作というのか、そういうものが必要だったりもする。


ここで、ゲームに勝つには、相手の心を読み、なおかつ必要とあれば、機械的な処理ができれば最強なのではないかと私はかなり前からそう考えていた。


そして、この物語の登場人物である、空(ソラ)が人の心を読むことに優れ、白(シロ)が機械的な処理を得意とすることで、力を合わせゲームで勝ち上がっていたのだ。


正直、驚いた。


なぜなら、多くのアニメというのは、現実的に大切なことを教えてくれるものは少ないような印象を持っていたからだ。もちろん、この限りではないことは申し添えておく。


この点で、このアニメは、そのような現実とファンタジーを融合したような感じで、非常に好感が持てたような気がする。


相手の力を読み取る能力


さらに、1話では、ソラが、2回ほど、自分たちを賭けて戦う場面が興味深い。


実は、ある程度の力を持つことで、相手の力量をある程度把握できるという能力を授かることになる。


生き残ってきた者達が得る思わぬ副産物というやつであろうか。


この意味で、ソラが、2回ほど、自分たちを賭けて戦う場面というのは、リスキー(リスクが高いこと)でもなんでもなく、100%勝てる勝負をしただけなので、リスクはゼロだ。


なぜ100%勝てる勝負だと言えるのかを説明すると、ソラ、シロの両者は、ある程度の力を持っているみたいなので、相手の力量を一瞬で読み取る能力を備えているのだと思う。


世の中に100%というものは存在しない。ただし、ゲームの中では別だ。


例えば、ドラクエで勇者(Lv 100)とスライム(Lv 1)が戦ったとしよう。


もしあなたが勇者を操作するなら、100%戦いに勝利するだろうし、勝利を確信しているだろう。そして、この勝利は推測などではなく、必ず事実となるものだろう。


ソラが、2回ほど、自分たちを賭けて戦う場面は、自分たちが勝てる部分で勝負しただけという単純だが面白い場面だった。


これは、勝負師としては、必須の能力というか選択だと私は思う。


自分が勝てる勝負しかしない、他をスルーするという能力というか選択、これは意外に大事なのではないかと考えるからだ。


しかし、能力を等しくする相手または、自分よりも強い相手の力は、なかなか読み取ることが困難であり、数値は未知数と評価されることも多い。


今後、主人公たちはこういった者たちと勝負していくのだろうと思う。


ただし、ソラ、シロ両者は、完全に私が考える能力者の域に達しているので、時に逃げることもあるだろうなと予想している。


普通のアニメなら、主人公たちが逃げることは絶対になく、逃げることは、弱いこと、ダメなことと捉えられているような気がする。


しかし、勝負師としては、時に逃げることは、かなり大切なこと、重要なことだと私は考えている。


副産物


さて、ここで、相手の力を読み取る能力を「生き残ってきた者達が得る思わぬ副産物」と表現したことの説明を行うこととする。


補足みたいなものだ。


私の文章はあらゆる点で、全てが欠落しているので、できれば気づいた時に補足していきたい。


話を戻そう。


相手の力を読み取る能力だが、この能力を得るため必須のことを説明する。


それは、「敗ける」ことだ。


正直、能力の向上を目指すものが陥りやすい点なのだが、ある程度の能力者になりたければ、「完璧を目指す」、「敗ける試合はしない」、「自分よりも強いものとは戦わない」という能力者が日々やってのけるようなことを真似してはならない。


それではレベルアップができない。


能力者がなぜこのような「自分が勝てる所でのみ勝負する」ということができるのかというと、「何度も敗けてきたから」、「失敗してきたから」である。


よって、アニメに出てくるキャッチフレーズ、「[空白]は無敗を誇り、全戦全勝」というのは、ない。それはない。


それは、このアニメが最初に言っていたように、幻想なのだと思う。


このアニメは、この辺りをしっかりとリンクしているので、非常に面白い。


つまり、なぜ主人公たちが能力者なのかというと、「何度も敗けてきたから」であり、なぜ主人公たちが相手の力を読み取る能力を備えているのかというと、「何度も失敗してきたから」なのだろう。


読心術


さて、話は変わって、ソラが使う読心術について思ったことを書いていきたい。


1話では、「宿屋の支払い」辺りでこの点が表現されている。


読心術、つまり、相手の心を読み取る能力というのは、3つの段階があると思う。


①相手の動作や癖などから相手の心を読む(Lv 1)
②自分の心を開くことから相手の心を読む(Lv 2)
③より大きなもの直感から相手の心を読む(Lv 3)


読心術のみならず、どのような能力も、最終段階(Lv 3)では、直感へと繋がるものだというのが私の持論だったりする。


直感は上手く説明できないし伝承できない。直感は確実なものではない。直感は何も知らない。直感は何も分からない。


説明できる物の価値は低く、伝承できる物の価値は低い。確実なものに価値はなく。知ることに価値はない。


そして、分かることは、何一つない。


私達は、分からないことを認識するため、受け入れるために、いろいろなことをやるのだと思う...。


いや、こういうことを表現しようとすること自体、間違いか。


LV1は自分の能力を過信する段階だろうと思う。LV2は他人を受け入れる段階。そして、LV3は...やっぱり上手く説明できない...説明できない段階というのが最も正確な気がする。


さて、このアニメ、1話で割りと満足してしまったので、続きを試聴するかどうかは分からない。


1話でここまで表現しているのは、素晴らしいことと思う。


あと、キャラとしては、シロが気になる。好きとかいうわけではなく、すごく気になる。


水鏡


ミラー


ミラーとは、自分の周りにあるものすべてが鏡であるという考え方を言います。


これがどういったことに有効かというと、まず怒りが抑えられるということが挙げられます。


ただし、儚いことが弱点です。


以下、この2点について具体的に説明していきます。


怒りというのは、無駄なエネルギーの一種であることが多いように思います。


なぜなら、誰かを恨んだり、憎んだりすることで、そのものとの運命を共にしてしまうという理(法則)があるように考えるからです。


もちろん、これはなんとなくそう考えているだけであって根拠はありません。


しかし、誰かを恨んだり、憎んだりしてる人が、最終的に憎むべき相手と同じようになってしまうということがあるような気がしています。


「私は、両親のようには決してならない」と心に決めている子供も、気がつけばみたいな感じでしょうか。


それよりも、憎むべき相手を無価値であり、意味のないものとみなすことで、このような危険を回避できる気がします。


ミラーはこのような様々な危険を回避するために有効だと私は考えています。


私自身、様々なトラブルには、ミラーを使うことが多いですね。


自身への不当な扱いはすべて自分そのものであり、他人への怒りは、自分への怒りに過ぎないということです。


ただし、このような性質を持った人間は、儚いという弱点というのがあるように思います。


ちなみに、ここでいう儚いというのは、何かを変える力がないということを意味します。


よって、何かを変えたいと強く願うものは、ミラーを多用すべきではないと考えていたりもします。


ミラーを多用すると、自分を失うような気がしています。


その代わりに得るものも多いのだけど...。


では。


(最近、ここに書くことが更にアニメっぽくなってきたな...


ノーゲーム・ノーライフ



ノーゲーム・ノーライフ、1話すごく面白かったのですが、2話を視聴し、多分、3話を見ることはもう無いでしょう。


というのも、前の記事で書いたように、私の中では、ノーゲーム・ノーライフは1話で完結してしまっているので、多分見ることはないだろうなと考えていたのです...。


しかし、2話、視聴してしまいました。


で、感想としては、別に見なくても良かったかなと。


ちなみに、OPはカッコイイので、すごく良かったです。


2話を視聴してみて思ったのが、ノーゲーム・ノーライフと咲というアニメ、同じゲームものですが、一つだけ違う点があるということです。


それは、ゲーム勝者への報酬とリスク。


咲というアニメは、特別な報酬を求めてゲームをやるわけでもなければ、命のリスクを伴うものでもありません。


しかし、それでも登場人物みんな、本気で頑張ってるのがよくわかります。


もちろん、どちらが優れているというわけでもありませんが、私は後者のほうが好きですね。登場キャラも含めて。


ノーゲーム・ノーライフの場合は、敗北へのリスクが高いため、多くの登場キャラ、特に敗者となるものに恐怖が表現されることになりますね。


これは、すべてがゲームで決まる世界ですからね。当たり前といえば当たり前かもしれません。


ちなみに、先ほど敗者となるものの恐怖といいましたが、恐怖した時点でほぼゲームの負けは決定したも同然なので、このような言い方をしています。


私の場合、これがあまり好きではないです。


そもそも特別な報酬、例えば、王になるためにゲームするとか言うのは、あまり好きではない感じです。


ノーゲーム・ノーライフの主人公たちが繰り広げられる頭脳戦を見てみたい気もしますが、最初に言ったように、このアニメは、1話で私の中では完結してしまっているお話なので、頭脳戦のために視聴を続けるというのは、ちょっと難しいかなと思っています。


ただし、もしかしたら、最終話辺りは見るかもしれません。




そういえば、咲も最終話辺りは視聴しましたね。それまでは見てなかったのですが。


なぜかというと、1期で主人公の咲が繰り出した連続攻撃が割と心地良い感じだったので、それを期待して、視聴しました。


咲を視聴した感想ですが、個人的には良かったと思います。1期には及びませんでしたが。


咲は、姉との対決、鏡(ミラー)と0(ゼロ)のどちらが勝つかというのは非常に興味がありますね。


正確には、どのような勝ち方をするのかですが。

ミラーとゼロ


ここで、話は変わりますが、姉の特質というか能力は、ミラーだと私は考えています。


私がイメージするミラーというのは、敵を映し出す、攻撃を跳ね返すというものです。


もしかしたら子供の頃の咲は、姉の能力に対向するために、プラマイゼロの手法を編み出したのかもしれませんね。


そして、それが無意識のうちに癖になってしまったという経緯があるのかもしれません。


この場合、ラストでは、咲のゼロ能力により最後の最後に勝負が決まるというものになるのではないかと私は予想しています。


ゼロというのはそういうものだからです。咲の試合を見ていればよくわかります。


咲の試合は、常に対戦相手4人が同じような点で並びます。そして、最後の最後に勝負が決まるという。しかも僅差で。


反対に、姉の試合は、対戦相手との点差が圧倒的になりがちです。


このような違いがアニメ上では見て取れます。


話が飛躍しますが、最終的に、咲は、自らのルールを破るのか、破らないのかの判断を迫られそうです。


だとすると、どちらになるのでしょうか。個人的には、ルールを破らない方が咲らしいと思います。


ちなみに、ミラー的な考え方は非常に有効なものだと考えています。


つまり、自分の環境は自分を映し出す鏡であり、周りの人たちはすべて自分を映し出す鏡だということであり、自分が感じる怒りは、自分自身への怒りであるということです。


ミラーとリスペクト


以下の記事で、リスペクトが話題になっています。


技術そのものがリスペクトされる風土がこれからは大事なんだと思う - UNIX的なアレ http://wadap.hatenablog.com/entry/2014/04/30/094740


リスペクトされなかったものが、リスペクトされるようになってきたという話ですね。


記事を読んでいて、私個人の考え方からすると、これは少し違うかなと思いました。


個人的には、「リスペクトされるようになってきた」ではなく、「リスペクトするようになってきた」というのが正しいかなと。


リスペクトされなかった過去があるのかどうなのかは知りませんが、もしそうなら、リスペクトしなかった過去があるのでしょう。


もしかしたら、昔の技術者は、他人をリスペクトしなかったのかもしれないなと予想。


今は、リスペクトする技術者が増えたので、リスペクトされるようになってきたのではないかというのが個人的な考えです。


他人をリスペクトしない人間は、やっぱりリスペクトされないのではないかと思いますね。ミラー的な考え方としてはそんな感じ。



結論



いろいろな記事を読んでいると、結論を先に書くか、あとに書くかでタイプがわかれているような気がすることがあります。


ちなみに、私は、結論を最後に持ってくることが多いですね。


ただし、結論を先に持ってくるのも分かりやすくて良いと思います。


今回は、このことについて少し考えてみたいと思います。


思うに、結論を先に書くと、読み手にとって分かりやすく、更には、後に続く論述に、結論との関連性を検証しながら読めるので、書き手の意図を伝えやすいと思います。


反対に、結論を最後に持ってくると、覚えやすいという事があると思います。


なぜかというと、文章はすべて終わりに向かうものだからです。


この辺の事情は、一方通行であり、すべての物語、全ての物物事と同じであるように思います。


そして、すべての文章も終わりに向かうものであるため、終わりを結論で締めくくることにより、覚えやすい、記憶に残りやすいと私は思います。


なぜなら、人は新しい物事ほどよく覚えているものだからです。


そして、文章を読み終わった後、一番新しいのは、文章の終わりです。


具体的には、文章を読み終えた後、結論は何だったけ?と考えると、先に書いてある結論よりも、後に書いてある結論のほうが覚えている可能性が高いということですね。


上記のような事情から、私は、読み物として楽しむものには結論を最後に持ってくることが多いです。


反対に、情報として楽しむものには結論を最初に持ってくることが多いです。


もちろん、この限りではないのですが、結論を置く場所に関しては、何となくこんな感じですね。

方法



方法論というのは非常に重要なわけですが、反対に、方法論が載せられていない本、記事というのは、結構多いように思います


方法論が載せられていないものは、例えば、「少食が体に良い」とだけ言ってるものを指します


方法論を書くというのは、つまり、「少食は体に良い」とだけ書くのではなく、「少食するにはどうすればいいのか」というのを書くことを言います


多くの本、記事というのは、「少食は体に良い」と書いているだけのものが多い印象があります。


しかし、「それくらい分かってるよ」と思うことが多いですよね


ここで、方法論を書くことが大切になってくると思います


私もできる限り方法論のほうをしっかり書く努力をしていきたいです...


反対に、方法論というのは、結構前提が多くて、伝えるのが難しいと思うこともあります


これは、以下の様な前提があるからです


①その方法が他人にも有効であるとは限らない、ひとりとして同じ人間は居ないので

②上手く伝えきれないことも多く、また、上手く読み取れないことも多い、これは、個人の能力や環境によって左右される

③例えば、本でも、全て本当のことが書かれているとは限らない、時には、話を大げさにしたり、嘘を書いたりということもあると思う、そもそも本は読んだ人を導くためにあるものではなく、売るためにあるという側面も強い。この場合、つまり、真実よりも読者が求めている答えを提供することに執念を燃やす出版社も多いと思う

④さらに、もし本に書いてあることが正確に読み取れ、かつ書かれていることが真実だとしても、それを完璧に真似することは、多くの場合とても難しい

⑤追加して、完璧に真似できたとしても、その方法がいつまでも通用するとは限らない


以上の前提が存在することから、この問題の本質として、自ら考え、自身に合うように方法論を調整し、かつ方法論をアップデートする力を身につけなければならないと私は思います。


これはつまり、他人の方法論を完璧に真似すること自体に大変な困難を伴うし、もし完璧真似できたとしても、それが自分に合わなかったり、アップデートが必要になったりするので、ほとんど意味が無いということです。


したがって、結局のところ、方法論というのは、多くの場合、自分が作りあげる手法の参考になるものに過ぎないのであって、それ以上でも、それ以下でもないと私は考えています。


とするならば、方法論を伝えること自体にもあまり意味が無いことのようにも思えます。


しかし、正確に方法を伝えることで、より多くの修正の機会が得られると考えるので、方法論を伝えることは、結論だけを伝えることよりも、基本的に価値のあることと私は考えています。


読書


私は、基本的に、実践からでしか得られるものはないと考えています。そこで、読書について思うところを少しだけ紹介。


私は、昔から、本をたくさん読むこと自体にそれほど意味を感じない。いや、感じてなかった。


ただし、この点については、それが何らかの信念に基づいたり、自分なりの確固とした考えを持ってやってることなら、本は読んでも、読まなくても多分どっちでもいいんだろうなと考えてたりする。


一番ダメなのは、この点について一貫性がないことだと思う。


一貫性がないというのは、つまり、「本は読まないほうが良い」と聞けば読まないし、「本はたくさん読んだほうが良い」と聞けばたくさん読むしという感じのことをやっている人達のことを指す。


人に聞いた話というのは、何にでもそうなのだが、説得的なものが非常に多い。


そして、大抵は結論に関わらず、納得させられてしまうものだったりする。


なんとなく本を読まなかったり、読んでいたりする人は、その行動の根底にどういった考えがあるのかを突き詰めて、超突き詰めていってほしいように思う。


もしそれが...。


長くなりそうなので、まあいいか。この辺りは、飛ばすことにしよう。


話を飛ばそう。


私としては、いくら曖昧な知識を増やしてもあまり意味ないという考えを基本持っていて、むしろ曖昧な知識を増やすのは有害ですらあるという考えをしていたりするので、割りと読書しない方の人間だと思う。


そして、結論から言うと、こういう人は、色々と言い訳して、実は嫌なことから単に逃げてるだったりするので、あまり近づかないようにしましょう。


少し自虐になった。


といっても、私は同じ本を何度も読む。超読む。


この辺りは、基本頭悪いので仕方ないことと考えてる。1回では頭に入ってこないので仕方ない。仕方ない。


そして、本を読んだ数、つまり月や年あたりの読んだ冊数などを自慢している人を見かけて思うことがある。


すごい!!と。


超すごい。


ちなみに、私が「最近、たくさん本を読んだ」というのは、新しい本をたくさん読んだという意味。


同じ本ならいつも読んでるよ。自分が決めたことなので。


次に、乱読について書いていきます。


以下の記事にて、乱読が推奨されています。


http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2014/04/27/125450


乱読は良いことですよねー。


やっぱり、脳への刺激を与えることが悪いこととは思えないです。


ただし、それをやって1年後、2年後一体どのように成長しているのかと想像すると、全く変わってないんじゃないかという気がするので、個人的には、読む本のジャンルとかは絞ってる感じです。


というよりも自然にジャンルが偏っているというのが事実なわけですが...。


この点について、私の場合は、何かを始めるときに、常に先を読む努力というか、先を想像するようにしています。


右へ、左へという言葉があるが、私の場合は、「先へ」という言葉が一番しっくりくる言葉ですね。


ただし、乱読は、新たな機会を得られるという点では、よいかもですね。


最初は、乱読、そして限定へみたいな...(適当


継続



以下の記事より、同じ乳酸菌を取り続けるとよいと書いてあります。


http://www.kaoritter.com/archives/2014/0428_141916.html


これは、個人的には、なんとなく納得できることですね。


全ては、同じを繰り返すことで強化されていきます。


同じ場所、同じ時間、同じもの、同じことなど。


そして、私が持つ価値観としては、以下の2つの要素がこの記事に関連しています。


①同じことを繰り返すことは、何より難しい

②何かをしないことは、何かをすることよりも難しい


繰り返すこと


私達の日常は、いつも同じことを繰り返しているようで、実は違います。気分によって決めている物事も多いでしょう。


そんな中、同じことを繰り返す物事はじつは少ないんじゃないかというのが個人的な考えです。


それ故、同じことを繰り返す行為には、膨大な価値があると私は思います。


そして、膨大な価値というのは、プラスにもマイナスにも作用します。


このように、大きな力が伴うなうものには、必ずリターン(利益)とリスク(不利益)が存在するように思います。


例えば、悪習慣が続けば、回復不能なまでに個人を蝕んでしまうこともあるでしょう。これがマイナス面です。


反対に、良習慣が続けば、個人を劇的に変化させることが可能です。


多くの人は変わることがないと私は昔そのように書いたことがあったかと思いますが、実は、一部でこの考えを元にしています。


人は同じことを続けられない。


なぜなら、それが難しいことだからです。


これが私の基本的な考えです。


何もしないこと


次に、何かをしないことは、何かをすることよりも難しいという話です。


これがどのように今回のテーマと関連しているかですが、何もしないということを繰り返すことが一番難しいと考えるからです。


テーマとの関連性としては、かなり弱いですが、思いついたので、無理やり書いておきます。いわゆるメモですね。


例えば、動くな、何もするな、と言われて、それを実践出来る人がどれくらい要るでしょうか。


難しいですね。私も無理です。1分でも実現できれば良い方ではないでしょうか。


そして、だからこそ、価値があると私なんかは考えていたりします。


虚言



集団的自衛権


「侵略されても何もできないのはおかしい」という人がいますけど、これは違います。


実際に、侵略軍が国内に進行した場合、現憲法上でも法律上でも、国は、ありとあらゆる自衛手段が採れます。


ここでいう自衛手段というのは、例えば、自衛隊による鎮圧とかですね。


では、集団的自衛権とは一体何なのでしょう。


これは、アメリカが攻撃された場合、日本が他国を攻撃することができるというものです。また、危険な相手を先制攻撃することもできるようになります。


なので、集団的自衛権という言葉は、その実態とかけ離れた言葉なので、注意が必要です。


先制的自衛権 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E5%88%B6%E7%9A%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9




1 集団的自衛権を考える上でのポイント


ここで、集団的自衛権の成否について考える際には、いろいろな噂が関連してきますので、今回はそのことについて少しだけ書いていきたいと思います。


2 アメリカという国の噂


(1) 自作自演の噂


アメリカが引き起こす戦争は、自作自演だという噂がありますね。


ヤバイ!シリア全面戦争が近い!国連の調査団に銃撃、米国空爆準備!化学兵器はアメリカ側の自作自演だ! - 真実を探すブログ http://saigaijyouhou.com/blog-entry-765.html


(2) 軍事産業からの利益享受の噂


アメリカの政治家のほとんどは、軍事産業の大企業から多額の献金、利益を享受しているという噂がありますね。


「シリア攻撃支持の議員」と「軍需産業からの献金」 « WIRED.jp http://wired.jp/2013/09/11/syria-war-authorization-money/


(3) 敵とのつながりの噂


戦争を引き起こすために作り出された悪役(仮想敵)と軍とが裏でつながっているという噂がありますね。


米特殊部隊ビン・ラディン謀殺、真相と動機を考察する - 逝きし世の面影 http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/6fce71b56b788d0a1575e4a1ecf0ce37


(4) 他国政治家を支配している噂


戦争を引き起こした時は、やっぱりアメリカ軍だけでは負担が大きい(お金や兵士など)ので、同盟国を引っ張り込み、盾(負担軽減)にするために、いろいろな国の政治家を操っているという噂がありますね。


米CIAが自民党に秘密資金を提供していたことを認めた | カレイドスコープ http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-1987.html


(5) いうことを聞かなくなった日本を人工地震で攻撃した噂


日本は自民党から民主党へ政権交代したことがありました。この時、一時的にもアメリカの言うことを聞かなくなった時期というものが存在します。CIAは民主党へは資金提供してなかったのでしょうか。そんなこともあり、ついでに人工災害の実験もできるので、アメリカは、311の人工地震を発生させ日本を攻撃したという噂があります。


311から3年 311人工地震津波原発爆発テロ否定論を検証: velvetmorning blog http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2014/03/11/7242585


(6) 子分選択の噂


よく映画とかで悪役が生き残った奴は子分にしてやるから、今から殺し合えという命令がなされることがありますよね。そんな感じで、アメリカも選りすぐりの子分(こぶん)を選ぶ戦略を立てているという噂がありますね。以下の記事では、アメリカは、中国と日本を戦争させたがってるとか。


米国政府の戦略文書「対日超党派報告書」 - るいネット http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=275620


3 集団的自衛権とのつながり


噂は噂でしかありません。


上記は特に意味のあるものではないでしょう。


しかし、集団的自衛権を認めれば、戦争に引きこまれそうだということはなんとなく分かるだろうと思います。


そして、できるだけ危険を回避していく方向で考えるのが、一番無難かと私は思っています。


もしかしたらアメリカは、戦争の負担軽減のために盾になってくれる国を探しているのかもしれませんし、中国と戦争をして欲しがっているのかもしれません。それは分かりません。


今の時代、戦う意思のない国、武器を持たない国を攻撃することは結構難しいことなのだろうと思います。


それ故、戦争に巻き込まれないようにするには、戦争を放棄することが一番良いと考えた先人たちの知恵の結晶が現在の憲法です。


なので、私としては、現在の政治家やアメリカよりも、現行憲法の知恵の方を信じたいところです。


世界の情勢が変わってきている、現状が前とは全く違うという言い分は、私には、詐欺師がよく使いそうな不安を煽る手口に似ているように感じます。


それよりも、各国との信頼関係を確実に構築していくことのほうが、急務であると私は考えています。


正直、中国と戦争になるくらいなら、尖閣諸島くらいあげたらどうだと考える人もいておかしくないわけです。


勝負というのは、この程度のことで決まるようなものではありません。やりようは他にいくらでもあります。もちろん、国を強固にし、経済を良くするやりようです。


4 論証


アメリカという国は、数年に一度、自国の利益と実験のために戦争を引き起こす国として有名です。


なぜ戦争を引き起こすのかというと、やっぱり、軍事産業で利益を上げることなどがあるからではないでしょうか。ちなみに、政治家はこのような企業から大量にお金をもらっているので、基本逆らえません。


次に、なぜこのように定期的に戦争を引き起こせるのかというと、戦争を自ら作り出しているからと言われています。


つまり、分かりやすい仮想敵を用意し、その敵に、自国民を殺させてみたり、禁止されている兵器を使わせてみたりということをやるからだそうです。


ちなみに、このように作り出された敵は、裏でアメリカ軍が操っているという噂があります。


ここで、当初の予定通り、戦争を引き起こすことに成功した軍は、自分たちの負担(お金や兵士)を少しでも減らすために、次の試みを実行するように思います。


具体的には、連携国を戦争に引っ張り込み盾にするわけですね。


これにより、自分たちの負担が激減します。ただ、戦争自体が割と自作自演な感じがしますので、裏で得た利益を盾になってくれた国に引き渡す必要はありません。


日本の政治家が、アメリカ政府からか、軍部からかどちらからお金を得ているのか分かりませんが、そういう人たちを選択してしまうと、後々、とても危険なことになるので、あまりオススメはできません。


ちなみに、アメリカは日本と中国を戦わせて、生き残った方を子分にするという戦略を立てているという噂もあったりします。


なので、このような危険の可能性に巻き込まれないためにも、集団的自衛権は認めるべきではないと個人的にはそう思います。


5 噂の感想


噂については、たとえ真実であったとしても、特に驚きもありませんね。


また、結構どうでもいい...。個人的には。


アメリカが悪の帝国だというつもりもないし、これについては責める気も全く無いですね。


ただ、このような流れは、もうすぐ終わりそうです。なんとなくですが。


無知



私は何も知らないし、分からないということを思った。


ここで、自分の力ではどうしようもないことを絶望という。


反対に、自分の力が全てに影響していることを感謝という。


人生というのは、①あらゆる物事を知った時に、すべての物事に絶望し、②あらゆる存在をわかった時に、すべての存在に感謝するという仕組みなのではないかと思う。


だとすれば、やっぱり、私は何も知らないし、分かってないのだと思う。


想像力が相当乏しいし、経験も浅いのが私という人間だ。


したがって、自分は、本当の絶望も知らないし、本当の感謝も分かってない...。


今回は、ふとそんなこと感じたので、メモしておこう。


噂話



今回は、噂について書くことをどう考えているのか、ちょっとだけ説明したいと思います。


結論としては、あまり良いこととは思ってないけど、噂を自分なりに検証し、考える機会はあったほうがいいかもしれないなということで、書くことにしました。


では、噂を自分なりに検証し、考えることというのは、一体どういうことなのでしょう。


イラク戦争

イラク戦争というものが歴史の教科書に記載されています。


イラク戦争とは、2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由として『イラクの自由作戦』の名の下にイラクに侵攻したことで始まった軍事介入のことです。
[イラク戦争 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89]


これについて私は、アメリカがイラク戦争を不確実な情報に基づき、戦争を始めた印象を持っています。また、大量破壊兵器は、イラクに実質存在しないという噂のほうが、的を射ているような気がしています。あくまで噂ですが。


アメリカについて言えることとしてはこれくらいですかね。先に投稿した記事を含めですが。


この戦争を始めた理由の一つに、「イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている」というものがあります。


当時、戦争に反対した人たちは非常に少数で、かつ様々な批判を浴びたと言われています。


ここで、例えば、「イラクには大量破壊兵器があるのに、なんで戦争に反対している?馬鹿なの」みたいな批判も多かったのではないかと思います。あくまで推測ですが。


しかし、実際に、イラクに侵攻し、徹底的な調査をしたにも関わらず、大量破壊兵器の証拠は出てこなかったようです。


反対に、開戦前には、様々な噂が囁かれていたと聞きます。


これは、「大量破壊兵器なんてものは存在せず、それはアメリカをイラクを攻撃するために用意した嘘だ」とか、「もしかしたら、大量破壊兵器の証拠は見つかるかもしれないが、偽の証拠が用意されているだけだ」とか言うものです。


未来は、非常に不確かで曖昧です。更に、未来ですら明らかにされる事実も非常に少ない。


よって、噂が真実になることもあれば、噂が全くのデタラメだと判明することもあります。しかし、一番多いのが、真偽不明、つまり本当なのか分からない状態だろうと思います。


ここで、私は、噂についても、一応、頭のなかにとどめておく価値のあるものは存在するのではないのかなとか思ってたりします。


イラク戦争の教訓

イラク戦争の教訓から分かることとしては、以下の2つのことが大きいと考えます。


①一般人が手に出来る情報は、ほんの一握りであり、その多くは、非常に不確かなものである

②多くの人々は、その時々の雰囲気に流されやすい


ここで、長くなりそうなので、①についてだけ説明したいと思います。


例えば、食品に表示される栄養値や産地などの情報でさえ、一般人が手に出来る情報は、ほんの一握りであり、非常に不確かなものであるということです。


具体的には、国産と書かれた表示も、実際には、産地を偽装されているかもしれないし、実質中国産のアサリを一旦、日本の浜辺にばら撒いただけなのかもしれない。


そんなことを言い出せば、全てを信用できなくなるようにも思えますが、ここではそういうことを言いたいのではありません。


多くに、食品が偽装されていた事件があった事実、そういったことを忘れないようにしていくことは大切なんじゃないかということです。


こういった事件も、人が忘れた頃に繰り返される印象を私は持っています。


なぜ繰り返されるのかというと、多分、人が忘れるものだからなのでしょう...。


私達一般人が手に出来る情報は、ほんの一握りであり、非常に不確かなものである以上、ケースバイケースですが、ある種の噂についても、自分なりに検証し、結論を出していかなければならないような気はしています...。あくまで個人的にはですが。


連結


http://mba-hack.blogspot.jp/2013/07/blog-post_20.html


私が、よく使う言葉に リンクという言葉があります。通常は、URLのことを指すことが多いのですが、この記事では違います。この記事では、リンクとは、繋がりや関連性を意味します。


私は、記事中に様々な関連性や繋がりを潜ませ、ある種の到達点を設定することが稀にではありますが、存在します。到達点とは、記事中にあるキーワードを追っていくと、自分が本当に言いたかったことにたどり着くというものです。


そして、このような記事を書くときには、Twitter上で、リンク、リンクと騒ぎ立てます。(これからは、少し自粛したい...)


ブログを書き始めた当初からやっていますが、今回は、具体的にどのようなリンクが存在し、それがどのようにつながっていくのか解説していきたいと思います。


なぜこのようなことをするのかというと、単に自分の心に従っているだけです。よって、かなり適当な部分があるかもしれませんが、一応見て行きましょう。


リンク設定したすべての記事に言えることですが、私は、自分の答えを始まりの場所に置くようにしています。その理由は、全てのものは、もと来た場所に還ると考えるからです。


ここでは、始まりの場所がTwitterのつぶやきということになりますが、他の記事では、冒頭に答えが隠されていたりと、色々なパターンがあります。しかし、本質としては、もと来た場所に還るようにリンクは設定されています。つまり、たくさんの繋がりを追って、最終的にたどり着くのは、もと来た場所ということになっています。よくある話ですね。


例えば、私は、かくれんぼでも、鬼のすぐ近くに隠れるという特徴がありました。なぜなら、それが一番見つかりにくいと考えていたからでしょう。鬼というものは、通常は、目を隠し、数を数えて一定時間動かないという制約を課されています。そのような場合、制約が解かれたら、鬼の人は、一番に何がしたいと思いますか。私は、とにかく自由に動きたいという人がほとんどではないかと考えました。そのような場合、鬼の人は、たくさん動く可能性が高くなり、鬼の人が動けば動くほど、自分から遠ざかっていくため、逆に見つかりにくいのです。どうやら私は、隠したいものは、目の前に置いとくタイプなようです。


以上のようなこともあり、これが私のやり方です。様々な関連性が散りばめられた記事を書くことがあるけれど、それを追っていくと、もと来た場所にたどり着くという構成をとっています。つまり、隠されたものはほとんどの場合、目の前にあるわけです。


もし手っ取り早く、私が考える答えにたどり着きたい人は、非常に簡単にたどり着けるということです。


ちなみに、リンク設定した記事は、自分の考えを隠しますが、通常の記事は、本当に伝えたいことをストレートに出しています。


以上より、「ある方法を続けるか、止めるのか判断する基準は、一体どうすればよいのか」は、「自分の心に従うという基準を設定すれば良い」というのが私の考えです。


これは、なんの基準も立てていないのと同じじゃないかという人がいるかもしれませんが、それは違います。何となくではなく、自分の心に従うことを意識するのでは、天と地ほどの差があります。例えば、以下のつぶやきがあります。


集団


集中影響魔法


周りの人に、自分はこれをやりたい、あれをやりたいと言ってしまうと、それはかなりの割合で、実現しないと思うことはありませんか。


また、周りの人に、ある自慢話をしたりすると、その後、何をやってもうまく行かない時期が続いたりすることはありませんか。


これは、それを聞いた周りの人たちが、無意識化の元で、"魔法"を使っているからです。


ちなみに、ここで言う魔法という言葉は、現在科学では解明されていない現象すべてのことを指します。もちろん、このような現象の呼び方はなんでもいいです。各々が好きな言葉に変換してください。私は、"偶然"という現象を"魔法"という言葉に置き換えて使うことが多いですね。そもそも、私は、偶然なんてものは存在しないという考えを基本としていますので、この言葉を他の言葉に置き換えて使うことはそれほど不自然なことではないのです。このような考え方は こちらに記事に紹介しています。気になる方は、読んでみてください。


では、これは、どういった類の魔法なのでしょうか。


この魔法は、離れた場所に居る相手に、自分の感情による影響力を及ぼす類の魔法です。よく"感情は離れた場所にいる相手にも一瞬で届く"と言われますが、分かりやすく言うと、そういうことです。


もし、この魔法に名前をつけるとするならば、ここでは"集中影響魔法"と言うことにします。


実は、一人の人間の魔法が、相手の現実に影響を与えるということは、めったに考えられません。


これは、ほとんどの人の魔力がそれほど高くはないからだと思います。


しかし、弱い魔力であっても、それが一人の人間に集中すれば、どうでしょう。


すると、その人間の現実に影響を与えるまでに発達することがあると私は考えています。


これが、今回紹介する"集中影響魔法"です。


以下、この魔法の発動条件と効果を解説していきます。


まず、この魔法は、周りの人間が特定の一人に対して、無意識化で負の感情を抱くことで発動します。具体的には、嫉妬や妬みなどは、微弱ではあるものの、それが集中すれば、強力な魔力となります。


例えば、A君が自分の周りの人たちに、"自分はブログを書く"と宣言したとしましょう。それを聞いた周りの人達は、特に反応しませんでしたが、一瞬だけ負の感情を抱くに至る人が数多くいました。


これだけで、先ほど説明した魔法が発動する条件を満たしています。


すると、魔法が発動することがあり、A君は、その後、宣言したことを実現することはありませんでした。


もちろん、これは、単に本人がブログを書くことをしなかっただけであり、周りの人達の責任ではありません。あくまで、本人の責任です。


しかし、本人の自慢や宣言というものが、ある種の魔法を発動させることはよくあり、自慢したことや宣言したことがうまくいかなかったり、実現しなかったりするきっかけになると私は感じています。


ただし、この魔法の持続時間はそれほど長くはありませんので、心配はいりません。


一定期間が経てば、何をやってもうまくいかないという時期を脱することができたりします。


また、この魔法は、昔から存在するものであり、現代であっても、その効果が変わることはありません。ネットで話が広まりやすいようになったので、効果が大きくなったと考えることも出来ますが、それは違います。


"周りの人達"というのは、リアルの人やネットでつながっている人を含みますが、その繋がり度に応じて、影響力の強度も変化しているからではないかと推測するからです。


つまり、ネットでつながっている人に、ある自慢話をしたとしましょう。すると、魔法が発動します。


この場合、ネットでつながっている人は、数が膨大になりがちであり、魔法の効果も大きくなるのではないかと考えられます。


しかし、自分との繋がり度、親密度が低いので、自分のリアルで同じことをした時と比べて、それほど魔法の効果が変わることはありません。繋がり度が高いほど、魔力も高くなる、そういったイメージです。


これは、自分との親密度が高ければ、高いほど、周りの人達が抱く負の感情もより大きなものになりがちだからではないかと、私は考えています。


しかも、人一人が親密になれる人数というのは、ネット社会であっても、ネットがなかった時代でも、それほど変化しているとは思えません。


ということで、周りの多くの人たちに、何かを知らせるときは、注意してみるといいかもしれないと思います。


ちなみに、この"集中影響魔法"に対抗出来る人も少数ではありますが居るとは思います。私には無理ですが...。


なぜ、こんな馬鹿げたことを信じるのか



実は、宇宙の組成のうち、原子は全体の5%程度に過ぎず、残りは直接見ることも感じることもできない物質だと言われています。


そして、この星、地球は、宇宙の中に存在するものですから、原則として宇宙の常識、ルールが適用されると思います。


現在、私達が解明しているのは、そのうちのたった5%(実際にはもっと少ない)であり、解明されていないことの方が多いわけですね。しかも、解明されていない事のほうが、本質的に重要なものである確率のほうが高いわけです。


よって、目に見えないものや、解明されていない事象や現象を信じたり、考えたりすることも、時に大切なことなのかもしれないなと私は思っています。


この記事を書いた目的


ラノベに登場した私が考える負のエネルギーというものを具体例を上げて解説してみました。



神々


価値

生きることは価値であり、死ぬことは無価値である。

つまり、生とは価値であり、死とは無価値である。

生きている以上、どこかに価値を見出さなければならず、死の前には、全てが無価値となる。

無価値とは、全てに価値を見出すことでもあり、全てが平等で均等であることでもある。

つまり、すべてを平等に考える者の前には、無価値が広がる。

しかし、それは死んでいることと変わらない。

神でも生を受けている以上、そんなことは行わない。なぜなら、このことをはっきりと理解しているからだ。

...。

こんなことがメモしてあったのだけど、何書こうとしてたのか、さっぱりでした。

メモはそんな詳細ではないので、たまに、何を言いたかったのか忘れることがあります。

まあ、一応、載せとこ。(自分でも意味わからんけど...

手がかり

と言いつつ、少しだけ推測すると、これは小説ネタだったのかもしれません。

以下、ちょっとだけ私の小説に出てきた神についての説明文を引用します。(まだ、表に出したことないやつだけど

以下、神という存在についての一般的な説明を行う。
神というのは、1つの星の生命エネルギーを一手にする者を言う。
人類、生命というものは、発展するに従って、自然とその数を減らしていくものである。
これは、例えば、一人一人の人間が自立し、独立する存在として、他者の力を必要としなくなるからと言われている。
つまり、原始的な人間と違い、多くの人間を奴隷として使役(しえき)、または相互補助する必要がなくなることを意味する。
そして、人口が減り続け、最終的に、その星に住む人間がたった一人の状態になった時、その者を神と呼び、その者が住む星を神の星と呼ぶことがある。
ただし、これらはあくまで自然的に発生したものでなければならず、争いの末、偶然、生き残ったものが一人だったというような場合は除くものとする。
したがって、このような奇跡的な状態になることはそう多くない。さらに、このような状態に至った時点で、すべての神は、一定の精神的安定を絶対的に備えている。
ちなみに、一人になる直前のごく小数の人間達は、神に最も近い者と呼ばれることがある。
これは、例えば、星に現存する人間が4人だった場合、そのエネルギーを4当分したとしても、莫大なエネルギーを扱えることになるので、このように表現される。
神は通常、名前を持たず、複数の神と接触した場合のみ、名前をつけることがある。この場合、星の名前を使われることが多い。
神といっても、絶対的な存在ではなく、星に死があるように、神にも死がある。
以上が実在する神についての説明だが、実在しない神については、ここでは扱わないので説明を省略する。
神は、通常、死を無価値とし、生を価値と認識している。
よって、神と言えど、この世に生を受けて存在している以上、そのどこかに価値を置く場合が多い。
したがって、その行動規範においても、神ごとにバラバラである。
以上のような理由から、生命を育む神や反対に、生命を滅する神も存在すると言われている。
ただし、自らの欲望や娯楽を満たすために行動するものは居ないとは断っておく。




ふむ、死ぬほどどうでもいい投稿だな。そういえば、小説書かないと...。



天使



天使

天使というキーワードは今まであまり馴染みがなかったのですが、これについてちょっと考えることがあったので、今回は、そのことを書いていきたいと思います。

私は、基本的に、この天使というキーワードについては、胡散臭いという印象しか持っていませんでした。

私が持つ天使へのイメージは、今現在では、①何よりも軽く、②何よりも透明というものです。

これ自体は、全然胡散臭くないんですけどね。

でも、人が天使と言うのを聞くと、そんな感じの印象を受けます。

そういえば、私の天使エピソードで思いつく話は、あまりなくて、実は、一つだけですね。

それは、小学2年の女の子の話です。

小学2年の女の子で、見た目が特別かわいい感じの子って、私が知るかぎりでは、例外なく、天使や妖精になりたがってたような気がします。

というのも、小学1, 2年って絵を書かされるんですよ。

まあ、学校や先生によっても多少違うとは思いますが。

で、特別かわいい感じの子は、何故か天使や妖精を描くんです。恥ずかしながら。

多分、天使になれないことはわかってるみたいだけど、でもなりたいのかなと、その時はそう思いました。

でも、気持ちはわからなくはないです。

雰囲気とかそんな感じの曖昧なものですが、やっぱり、そういう子って、どこか天使に近いオーラというか、そういう感じのものをまとってたような気がしなくもないからです。

しかし、小学3年のクラスでは、そういう雰囲気の持ち主っていうのは、全くいませんでした。

まあ、これはたまたまなのかもしれませんが、個人的には、あれが最後だったんだろうなと、今ではそう思っています。天使に最も近い状態の最後というか、子供の最後というか...。

私にとって7歳以上は大人と言ったことがあったかと思いますが、そのように考えてるのは、実は、上のような事情も関係していたりします。

なんで人って成長するのかな。

こういうことを思い出すと、せっかく、すごい状態なのに、もったいないとか思ってしまうような気がしなくもないんですが...。

まあ、その話は置いといて、私が天使と聞いて、思いつく話はこんなところです。

えっ?小学1, 2年の男の子はどうだったって?

うーん、自分が「L(エル)みたい」と言われたことは覚えてます。ちなみに、エルというのは、映画デスノートに出てくる探偵のことですが。

多分、私が猫背ってたからそう言ったのだと思う。

残酷、正直って感じかな。

というか、この話ってなんか意味あるのかな...。


統計



現在、過去、未来


「今この瞬間に意識を集中しろ」とか「今だけを大切にしろ」とか「目の前のことだけがすべてだ」とか言われることがあります。

今回は、このことについて自分の考えを書いていきたいと思います。

この事について語るには、まずは、過去のお話からしていかなければなりません。

今だけを大切にしている人は、過去を軽視しがちな印象があります。

しかし、過去というのは、とてつもなく大切なものです。

これについては、例えば、統計学というものを例に挙げて解説していこうかなと思います。

過去を大切に思わない人は、統計、やらないのかな...。

まあ、それはさておき、統計学、ないしは統計というのは、「過去のデータを元に計算し、未来を予測、それを現在に活かす」という目的のものです。

ここで、統計学においては、過去が最も重要視されます。

例えば、あなたが、「物を並べてそれを販売する店の経営者だったとします。これは、コンビニの店長とか、スーパーの店長とかをイメージしてみてください。

そこで、あなたは、「ある商品が1週間でどれだけ売れたか」を①性別、②時間帯の2つの要素で統計し、「当該商品は、男性が9:00-10:00のうちに購入する確率が80%」という結果を得られたとします。

そして、あなたは、この結果を元に、朝から男性客が9割を占める駅の売店でその商品を販売した結果、一定の利益を生み出すことに成功しました。

これは、「過去のデータを元に計算し、未来を予測、それを現在に活かす」というものであり、何より過去のデータが重要視され、それに基づいて人の行動を決することになります。

過去の情報が役に立つことをお分かりいただけたでしょうか。

では、次に、未来についての重要性を説明していきます。ただし、文章を書くのが面倒になってきましたので、この辺りの説明は簡単に終わりたいと思います。

未来の重要性をイメージするには、例えば、名だたる経営者達を思い浮かべると手っ取り早いと思います。

ここで、果たして、彼らは、今この瞬間だけを意識していたでしょうか。

思うに、未来を見ていたものも少なくなく、更には、今だけを意識していたら、新しい製品を生み出すことはできないような気がします。

ということで、やっぱり、時には未来を見ることも大切だと思います。

最後に、現在の重要性についてです。

たしかに、現在は大切です。

しかし、現在を大切にするあまり、無茶なことをいう人も少なくないような気はしています。

例えば、「常に今だけに集中しろ」とか。

私の個人的な考え方からすると、これは間違いです。

私は、人生や1日のうち何度かは、必ず「勝負どころ」というものが存在すると考えています。

そして、私が現在に集中するように心がけているのは、おおよそ、この「勝負どころ」の場面に限られます。

"常に"現在だけに意識を集中することは不可能ですし、もし可能だったとしても、とても疲れてしまいそうに思います。

今という時間はとても大切ですが、「過去、現在、未来」のすべてが大切なのであって、今この瞬間に意識を集中するのは、特定のポイントだけで十分だと私は考えます。

もちろん、ポイント以外にも頑張ってもらって結構だと思いますが、それでは、バテてしまいますよ。

そして、バテると、ポイントを外してしまうことにもなりかねません。

このことから、休むこと、頑張り過ぎないことも意外と大切なことなのかもしれませんね。

さて、最初に過去の重要性の話をし、そこで、統計学を例に挙げたと思います。

今回は、追加文章として、統計学について私が思うところを少しだけ書いていきたいと思います。

統計学


統計学は最強の学問と言われることがありますよね。

私は、有効ではあるものの、統計学は最強でもないし、絶対でもないと考えています。

以下、私にとっての統計学を解説します。

統計学は、過去のデータに基づいた確率論です。

例えば、あなたが株でも証券でも為替でも何でもいいので、何らかの投資を行っていたとします。

そこで、あなたは、過去の値動きを分析し、統計したとしましょう。

統計の結果、あなたは、特定の値動き後には必ず株の値段が上がることを発見したとします。

あなたは、この事実を発見し、有頂天になるでしょう。

なぜなら、自分が発見した特定の値動き後に株を買うと、100%確率で利益を出せるという統計がでているからです。

しかし、多くの場合、上記のような統計に基づいた投資は、成功しません。

なぜなら、統計学は、人間の心理が作用する分野では、その真価を発揮することが少ないからです。

人間の心理が作用する分野というのは、例えば、経済が挙げられます。

経済は、人間の心理で動いていると言っても過言ではありません。

ここで、統計は、あくまで過去のデータに基づいた結果です。

よって、過去のデータを元に計算した結果、それが100%の確率を示したところで、必ず今後も同じようなことが起こるとは限りません。

未来においては、何が起こるのか分からないからです。

例えば、あなたはアイスクリームが好きで、毎日食べていたとします。

しかし、次の日には飽きているかもしれないし、病気で食べられなくなるかもしれない。

したがって、統計学は、過去の統計を元に未来を推測する目的のものですが、やはり、絶対ではないのです。

しかも、株や為替の値動きでもそうですが、同じ動きは、一つとして存在しないものです。

したがって、未来においては、株の世界でも、常に新たな値動きが形成されていくことになります。

これは、同じものが一つとして存在しない私達の世界と似ています。

例えば、クローンでも、細かい部分を見ていけば、やっぱり両者は違うものなのです。

また、同じ心理も一つとして存在せず、今この瞬間に存在するのは、今この瞬間に感じている心理だけなのです。

自然分野では、一定の真価を発揮する統計学ですが、人間の心理が影響を及ぼす分野については、有効ではあるものの、最強と呼べる感じではないなと私は思っています。

更に、統計学では、一定の結果を導くために必要な要素の特定や計算方法、集計など非常に難しい部分があると思います。

難しいというのは、時間的、物理的に難しいということです。

なので、私も、たまに確率論で物を言うことがありますが、統計学が最強とは思っていませんね...。


悪意



1. ちょっと前に悪意という言葉を出したので、今回は、悪意とか、怒りとかいうものについて個人的な考えを書いていきたいと思います。

私の場合、本当のことを言われようが、酷いことを言われようが、間違ったことを言われようが、自分の考えとは異なることを言われようが、その人に悪意がなければ、怒りというのはあまり湧いてこないし、問題にする必要があまりないのだと考えています。

しかし、これについては、私の感覚とは違った感覚を持った人が多いようです。

簡単に説明してきます。

(1) 私の考えでは、本当のことは、本当のことなので仕方ないと思っています。それを指摘されたからとって怒るのは筋違いです。

この点、多くの人は、本当のことを言うと、めっちゃ怒る人が多い気がします。

(2) また、たとえ相手が間違っていた事を言ったとしても、私も含め人とは間違うものです。

この点、多くの人は、相手が間違えることを決して許しません。

(3) さらに、相手が自分の考えとは異なる事を言ったとしても、それは考え方が違うだけです。この場合、常に自分が正しいとは限りません。

この点、多くの人は、相手が自分の考えと異なる考えを持つことを認めようとしません。

ここで、私は、相手が悪意を持ってれば怒っても良いけど、そうでない場合は、怒るのは良くないと思っています。

2. さて、ここで、悪意とは一体何なのでしょう。

私の考えでは、悪意とは、相手への不満などではなく、自らの不満と現状に対する怒りを相手にぶつける行為だと考えています。または、ぶつけたいという気持ちのことですね。

ここで、他人とコミュニケーションを取る場合は、この悪意を読み取ることが大切になってくるような気がしますが、逆に言えば、悪意を読み取れない人は、結構怖い感じします。

つまり、こっちには全く悪意がないのに、変なふうに読み取られてしまって、激怒されてしまうようなことですね。これ、すごく困るんですよ。そして、面倒くさい...。

この点、こういった相手を事前に察知する能力が求められるわけですが(そういう人と関わってもいいけど、無理に関わる必要ないかと思います)、「空気読めよ」という言葉に対して、過剰に反応する人は、ちょっと注意かなと思っています。

私自身、空気なんて読まなくても、読んでもどっちでもいいだろと思ってるし、そんなことをわざわざ指摘する必要ないと思っているわけなのですが、その理由は、私がかなり冷たい人間であり、空気、というか悪意を読めない人間とは一切関わりたくない故、すぐに逃げてしまうのですね。ただそれだけなんです。

そして、正確に言うなら、「空気なんか読めるか!!」って思う人もいるのだろうけど、それは、みんな知ってることなので、この場合、相手の言いたいことを読みとる努力をしなければならないと私は思っています。

面倒ですね。しかし、それがコミュニケーションを取るということなのではないでしょうか。

反対に、「空気読めよ」などと他人に指摘を入れた所で、それが改善されるわけがないし、相手を怒らせるだけなので、その言葉は、やっぱり必要ないんじゃないかと思っています。

この場合、私は、①空気読めよ、とお節介を焼く人、②空気読めよと他人に言わせる人、の両者が苦手なタイプということになります。(苦手なタイプ多い...

まあ、これについても単にタイプが違うというだけの話なわけですが、私の中にも合う合わないというのはどうしてもあります。

私の話はかなりどうでもいい話ですよね。はい。

今回思ったのは、悪意を読み取ろうとすることって大切なんじゃないかなということです。

では。



見破



こちらの記事を読みました。内容は、小説に出てくるキャラが忍耐することで、欲しい物を手に入れた。したがって、耐えることは大切というもの。

http://www.kaynotes.com/archives/7774428.html

しかし、私は、ちょっと違った見方をしたので、メモしておきます。ちなみに、小説は読んでません。

私が思うに、作者が言いたかったことは、そういうことではありません、と思います。

もちろん、作者の考えが全てではないし、読者が答えを見つけるきっかけになればそれで良いという考えは前提にあることは申し添えておきます。

ここで作者が言いたかったのは、「紋次郎は、人の本質を一瞬で見極め、欲しい物を手に入れた」ということだと私は思いました。

では、なぜ私はこのように捉えたのかを簡単に説明してきます。

まず、小説では、紋次郎は、欲しい物を鍛冶屋に譲ってくれと頼んだけど、断られ、黙ったまま木彫りの像のごとくそこに居る選択をするわけです。そして、最後には、鍛冶屋が折れて欲しい物を譲ってくれたというお話です。

ここで、状況としては、紋次郎が木彫りの像のごとく動かないという選択をした時点では、鍛冶屋よりも圧倒的に不利な位置に置かれることがわかります。

なぜかというと、木彫りの像のごとく動かないという選択は、食事もできないし、水も飲めない、トイレにも行けない、その他もろもろ、人が生命活動を維持するに必要な行動を取れないということでもあります。

しかし、喧嘩、ではないけれども要求をふっかけられた鍛冶屋は違います。食事もできるし、水も飲める。紋次郎を気にしなければいいだけであって、気になったとしても、絶対に折れなければよいだけです。

反対に、紋次郎は時間の経過とともに、死に近づきます。このような我慢比べのような状況に陥った時、紋次郎は、相手側に要求する立場であり、圧倒的に不利であることはお分かりいただけるかと思います。

しかし、紋次郎は、鍛冶屋が折れる人間であることを見破り、従って、このような行動に出たのだと私は思いました。

何が違うのかというと、リスクが全然違います。

すぐに折れる人間に勝負を挑むのと、なかなか折れない人間に勝負を挑むのとでは、リスクが全く違ってきます。また、どちらのタイプの人間かが全く分かっていないのに、片っ端から勝負を挑むのは、あまり賢いとはいえません。

私自身は、対面するだけで相手の本質、具体的には、すぐに折れる人間なのか、弱そうで強い人間なのか、実力を隠してる人間なのか、こっちの実力を一瞬で把握できた人間なのかというのは、一瞬で分かるという中二病眼(つまり、単なる思い込みの空想能力)を発症しているのでアレなわけですが、小説では、主人公がいくつかの兆候を捉えている部分が描かれているように見えます。

つまり、理由を明示することなく、一瞬で相手の本質を見破ったという設定では面白くありませんから...。

ここで言ういくつかの兆候というのは、例えば、「渡世人には決して渡せない」という鍛冶屋の言葉がそうです。

私の印象ですと、その人が女性であるか、中国人であるか、子供であるか、渡世人であるか、などその人の性別、人種、年齢、社会的身分を気にする人間というのは、割とすぐに折れる人が多いような気がします。それはもうあっさりと折れます。私の印象ですと。

ただ、このような差別にも何らかの信念を持ってやってるのであれば、それほど簡単に折れるような人ではないと私は考えています。

しかし、特に理由がなく、何となく、嫌いだ、嫌いだなどと差別する人間は、色々なことに対して、割りとすぐに折れます。

今回のケースでは、紋次郎は、鍛冶屋が信念に従った差別をしているのか否かははっきりしませんので、他の事情も考慮して判断したのかもしれませんし、そうでないのかもしれません。

が、たとえ信念上の差別であっても、単に何となく差別している人間よりは折れにくいというだけの話であって、やっぱりしばらくすると折れる人が多いのです。

これは、差別という事自体にバイアスがかかって、心の負荷になっているからだと思います。もちろん、無意識のうちにですが。まあ、これについてはどうでもいいです。

つまり、「鍛冶屋が折れるタイプの人間だと知って、紋次郎は、少しの時間、動かないようにすることにした」というのが、今回のお話だったと私は思いました。

では。


教育



以下の記事を読んだので、思ったことを適当に書く。読み直しをしない故、文章はグダグダが予想されるので、注意されたし。

http://logmi.jp/15682

内容は、タイトルの通りだが、今更感があり、みんな知ってることだと思ってるので、問題の本質はそこではないと私は考えてる。

というか、海外でも日本と同じような問題があったのかと思った。

前提として、教育というのは、基本的に、大人が子供を支配するために利用することが目的なのではないかという考えが私の中にある。

つまり、「学校は子供の創造性を奪っている」というが、このニュアンスは、意図せずして奪っているというようにも読み取れるので、適切ではなく、私は、「学校は子供の創造性を奪うことを目的として存在している」というのが適切な表現だと考える。

というのも、小学校の成績の項目を見ても分かる通り、良い成績をとるには、「先生の言うこと、親の言うことをしっかりと聞く」ことが何より重要で大切なことだからだ。

つまり、先生や親の言うことをしっかりと聞いれいれば、良い成績を取れるということだ。

しかし、今日の競争社会では、国や先生や親の言うことを聞いていれば、生き残れるかというと、そういう感じではないとは思っている。

ただ、国家が何をしたいのかは、教育内容を見てみれば一目瞭然なのであって、子どもたちを競争社会でも生き残れるようにしようとは考えていないことが分かるので、これは問題の本質ではないと思われる。

義務教育の内容というのは、表面的には学力向上なわけだが、本質的には、上(国、政府、先生、上司、親)の言うことを何でもよく聞く人材を作り出すことが目的であって、それ以外の何者でもないと思う。もちろん、だからどうだというわけでもないが。

さて、ここで本質的な問題の一つは、学校の先生が、変に公平性を求められている点にあると私は考えている。

なぜこういうことをするのかというと、ストレートに、教育は、奴隷となる人材を作り出すことを目的としているというのでは、反感を買う為だと予想される。

つまり、実際、学校の先生が公平であるはずがないのだが、なぜか、公平性を求められてるみたいだ。

公平であるはずがないというのは、例えば、あなたが先生だとして、自分の言うことを聞かない子を評価しようと考えるだろうか。

答えは、ノーだ。もちろん、これができる人間も居るだろうが、数は少ないだろう。圧倒的多数の先生は、公平でない。

しかし、これは別に悪いことではない。悪いのは、変に公平性を求める点だ。

詳しく条文を見る機会を怠ってしまって申し訳ないが、学校教育法、教育基本法には、たぶん、公平性を求める条文が幾つか存在すると思う。

それ故、公平であるはずがない学校の先生は、公平に見せかけるために多大な時間と労力を費やし、あたかも公平であるかのように見せかけるのだと思う。

私は、これは、労力と時間の無駄だと考えてるし、それによってますます教育の質と機会が低下しているのだと思っている。

もちろん、変に公平性を求められることがなくなったとしても、すべての問題が解決するわけではないが、これが求められないことによって、だいぶマシになると私は思う。

子どもたちにも、先生は絶対であり、公平であると思わせるよりも、先生も間違えるし、一人の人間だと思わせるほうが、子供の創造性を伸ばすのに役立つだろう。

なぜかというと、先生が絶対である学校では、子供が萎縮してしまう可能性があるからだ。これは、創造性を狭めることにも繋がると思う。

ちなみに、すべての問題を解決するやり方は、小説の方に載せることにしたので、ここでは説明しないでおく。




実態



以下の記事が出ています。

記事は、アベノミクスは何だったのかというもので、内容的には、「どうも経済の実態を反映していると思えない事である。バブルといって良いだろう。そして、バブルなら何時破裂しても可笑しくはない」というのが書いた人の考えみたいです。

http://www.huffingtonpost.jp/iwao-yamaguchi/abenomics_b_5680662.html

今回は、この件について自分の考えを書いていきたいと思います。

さて、ポイントとしては、「どうも経済の実態を反映していると思えない事である」という表現です。具体的には、「実態」という言葉ですね。

実は、株、証券、為替、国債など経済指標に直接関係のある要素について見ていく際には、実態よりも高いか、低いかという視点で見ていくと分かりやすいように思います。

ここで、実態というのは、本来の価値のことをいいます。そして、経済というのは、実態を基準に、3つの状態があります。

3つの状態というのは、つまり、①本来の価値と市場の判断が一致する場面、②本来の価値よりも、市場が低く見積もっている場面、③本来の価値よりも、市場が高く見積もっている場面です。

ちなみに、バブルというのは、③の場面のことを言います。つまり、経済が実態よりも高く高くかけ離れてしまった状態です。

このような状態になると、いずれ崩壊することは免れません。なぜなら、その国の経済実態が、市場からの期待に答えられない時がかならず来るからです。これを、バブルの崩壊と呼びます。

バブルの崩壊は、実態から離れた経済評価が、その実態に合わせるように動きます。

話がそれてしまいました。私の場合、3.11前の日本経済は、たしかに、実態とはかけ離れていたものだと考えていました。

しかし、それは、実態よりも低く見積もられていた②の状態だったと考えています。

私が考えているアベノミクスの役割としては、世間の注目を浴び、本来の価値よりも低く見積もられた日本経済を、本来の価値通りに評価して欲しいという呼びかけ的な意味合いが強かったのだと考えています。

つまり、これは、バブルの崩壊とは反対の現象ですが、...この現象はなんて言えばよいのでしょう。

まあ、バブルの崩壊という実態よりも高く評価された評判が落ち込む、実態の方に向かう動きがあるのなら、それとは逆の動きも当然あるわけで。

もしアベノミクスがなくても、このような流れは絶対に起こっていただろうと私は思っていました。

このような流れというのは、日本経済があたかも、上昇したかのように見える流れのことです。

私は、これは単に、震災前に低く見積もられていた日本経済が、本来の価値を反映し、もしくは本来の価値に近づいただけなのではないかと考えています。

したがって、今までのアベノミクスは必ず成功するといえるようなものでしたが、これからのアベノミクスは、ここからが正念場だろうなと言うのが私の考えです。

なぜなら、ここ最近の流れは、低く見積もられた日本経済を、市場が正当に評価しだしただけの話だったからです。

ただし、動きとしては、そうですね。下げる可能性は十分にあるようにおもいます。つまり、再度、実態よりも低く評価される可能性ですね。

これは、日本経済の今後に期待が持てないと市場が判断すれば起こりうるように思います。

したがって、もしかしたら、バブルが崩壊したような動きに見える事はあるのかもしれませんとは思います。

と言っても、その規模はそれほど大きくはないでしょう。それは、真の崩壊ではないためですね。



保険




最近、保険の話がよく流れてきます。

http://www.nikkei.com/money/household/hokenhonto.aspx?g=DGXNASFK1201F_12072014000000

http://daipresents.com/2014/insurance/

ただ、個人的には難しい話だなと思っていて、保険を勧めるのも、保険を否定するのもあまり良くないなとは思っています。

何故かと言うと、「保険には入るな」と勧めて、もしその人に何かあった時、困るでしょということだからです。

ただ、個人的には、保険と言うのは「安心」を売っているという印象が自分の中ではあります。

具体的には、何かよくわからないけど、入ってて安心したい人が購入する商品であり、そういう感じで加入している人が多いだろうと予想しています。

ここで、何かあった時に保証してくれるのが保険だという認識は私の中にはありません。何かあっても、たぶん保証してくれないのだろうけど、何かあるまでの安心を保証してくれる感じの商品だと思っているからです。

しかし、こういうスタンス、つまり保険を否定するスタンスで話をするのも良くないと思っていて、それは、何かあった時だけ不利益を受けるけど、何もなかった時は利益を一切受けないという点が挙げられるからです。

これはどういうことかというと、例えば、何もなかった時、人はどう考えることが多いでしょうか。想像してみましょう。

それは、「何もなかったけど、一応保険に入っておいてよかった。入ってなかった人で酷い目にあった人の話も何人か聞いてるし。掛け金は無駄になっちゃったけど、何かあった時のために入ってたんだ」です。

しかし、何かあった場合はどうでしょう。何かあった時、保険に入っておらず、更にはそれが人の話を聞いた上での判断だった場合、「アイツのせいで!!」となります。

つまり、保険が必要になる事態というものは、その人にとっては、決して良いとはいえない事態です。実は、そのような事態に陥った時点で、人は、他人に責任を転嫁してしまいがちだということです。

通常、人というのは、上手くいかない時、酷い目にあった時、絶望的な状況下では、あらゆる因果関係の中から他人に責任を求める傾向にあると思います。

反対に、今まで支払ってきた債務があった場合は、そのことをすぐに忘れてしまいがちです。ここでいう債務とは、保険料のことですね。

保険料は、課金と一緒で、ちょっとずつなら、人はそのことに鈍感だという心理をつく、うまい商品だと思います。

なので、保険というのは、販売者にはあらゆる点で最適(簡単に儲けられる仕組み)ですが、加入者にとっては、通常、厳しいものになりがちだとは個人的には思っています。


失敗



今回は、目標を書くことの意味について、個人的な考えを述べていきたいと思います。

目標というのは、紙に書いて、毎日見ると良いとよく聞きますよね。

私自身も、その通りだと思っていて、これがなぜ良いのかということに関して、個人的な考えを持っているため、具体的にはそれについて書いていこうかなと考えています。

では、はじめましょう。

人の成功、具体的には、その人の目標が達成されるために一番大切な要素というと、皆様、何を思い浮かべられるでしょうか。

それは、能力ですか、知識ですか、努力ですか。

私個人の考えから言うと、能力 < 知識 < 努力の順に答えに近いと思っていますが、実はどれも違います。 私が目標達成に一番必要だと考えるのは、失敗です。 人の成功は、失敗してきた数に比例する。これが私の考えです。というか、私の基本的な考えです。 しかし、ここで言う成功か失敗かの判断は、非常に長期的な視点で見た結果のことを言います。 これに関しては、時間というものがそれを見極める上で、非常に重要な要素になります。 簡単に説明すると、「時間というものは、世の中に存在するあらゆる偽物を沙汰していくものである」ということです。 したがって、一時の成功では物事を見極めることは不可能です。それは、偶然によるものなのか、実力によるものなのか、本質によるものなのか、判断ができないからです。 ただし、確実に判断できないからといって、予測することはある程度可能であると思われます。 予測するというのは、それが時間経過によって即座に沙汰されるものなのか、数年後に沙汰されるものなのか、可能な限り生き残る確率が高いものなのかをです。 ちなみに、絶対的に生き残るものというのは存在しません。いくら完璧に近い人間がいたとしても、です。 なぜかというと、その時の環境や運という要素も非常に重要だからです。 たしかに、完璧に近い人間というのは、ある程度の環境を克服するの力を有しているが故に、生き残る可能性が高いものといえるでしょう。更に、時間経過とともに、運、つまり偶然要素は薄らいでいくのです。 しかし、あらゆる不運に耐えられるシステムは存在しませんし、更に、どのような環境をも克服するシステムは存在しません。あ、ここで言うシステムは人間に置き換えてください。表現手法として、システムのほうが意図が伝わりやすいと思ったので、使っただけですので。 さて、時間は偽物を排除していく傾向が見られる故に、結果として、本物を残していく傾向が見られるという話でした。 したがって、成功か失敗かは、容易に判断できるものではなく、時間要素を考慮した上で判断しなければ間違ってしまう可能性が高いと私は考えています。 ここで、話がタイトルと相当ズレてしまっている感があります。 しかし、これらは、タイトルで述べていることと大いに関連性があるものです。 つまり、ここで言う一時的な失敗というものは、ここで言う成功というものに包括されるということです。 私は、最初に、成功に一番大切なことは、失敗することだと述べています。 しかし、これらが一見して矛盾する事柄であるがゆえに、「既に失敗してるじゃん、成功なんてありえない」と考えられる方もいるのではないかと思ったので、まずは、この点について自分なりの考えを説明しました。 次に、目標を書くことが、なぜ成功につながるのかという点について書いていきたいと思います。 真の勝者は、真の敗者でもある。一番多く失敗してきたものが、真の成功者だと私は考えているわけですが、紙に書くことで、自らの失敗を認識し、多くの失敗を経験することに寄与するものだと私は思います。 したがって、この点において、目標を紙に書くこと、そして、それを見ることは、大いに有効であると考えています。 つまり、目標を書いて、それを見る。しかし、目標が達成されるまでには、「今日もできなかった」、「今日もできなかった」、「今日もできなかった」の繰り返しであると想像されます。 更に、目標に近づいてきたとしても達成感はそれほどなく、「少しは近づいてきたような気がするけど、やっぱり、今日もできなかった」の繰り返しだと思われます。 これは、自らの失敗を認識し、経験することにほかなりません。と考えられます。 したがって、一番多く失敗することこそ、成功するために必要不可欠なことだと考える者としては、目標を紙に書くこと、そして、それを見ることは、目標達成のためには有効なのかなと思います。 しかし、目標達成、成功というものと、幸せ、幸福というものは、ほとんど関連性がない事柄なので、その辺りはお間違えのないようにとは思います。 といっても、ここで言いたいことはそんなことではなく...、 本当に強く見えるもの、成功しているようにみえるものは、誰よりも失敗を繰り返してきたものである、と私は思います。 では。


執着


道具にこだわるべきか、こだわらないべきか...というテーマについて自分なりの考えを書いていきます。


基本的なスタンス

偉い人が書いた本には、このテーマに関して、ほとんどの場合こう書かれています。「道具にこだわりを持つべし」と。


私もそう思いますが、大抵の場合、唐突にこういう話をし、道具にこだわりを持つべき理由についてあれこれ書いてあるんですが、ちょっと説明不足かなと。


例外的なスタンス

どこらへんが説明不足なのかというと、道具にこだわるべきその時期についての説明がまったくないからです。例えば、最初から道具にはこだわりを持って接すればいいのか、ある程度、使ってみてからこだわっていくべきなのかでこの言葉の捉え方は大きく違ってきます。


私は、道具にこだわりを持つのはいいことだけど、それは道具を使っているうちに自然と持ててくるものであって、最初からこだわってたら何も出来ないでしょという考えを持っています。


例えば、OSです。OSにこだわっている人はほんとうによく見かけます。悪いことではないし、むしろいいことだとは思いますが、他人にそのこだわりを押し付けるのはなんか違う気がします。Macのここがすごいよとか、Windowsはここが便利だとか。そういうのは、単なる表面的なものであって、私の場合、根本的には好きか嫌いか、自分に合っているかそうでないかではないかと考えています。


Vimについて

例えば、私は、テキストエディタには、Vimを使ってます。全然使いこなせていませんが、Vimが他のエディタよりも優れているとかそういう理由ではなく、好きだから使ってます。


なので、Vimよりも科学的に優れていると証明されたエディタがあっても、私は、Vimを使っていくんじゃないかなと思っています。もちろん、他のエディタの方を好きになれば、乗り換えますし、自分にとってマイナスになるような制限は必要ありませんから、乗り換えができないというわけじゃありません。


ただ、今のところは、上のような考えが自分のなかにあります。そして、これも一種のこだわりなんじゃないかなと思っています。


しかし、これは、最初からこだわりを持ってたから得られた結果ではありません。色々なエディタを使ってみて、その中で、Vimを選んだのであって、最初から何かに決めていたら、非常に視野が狭くなっていたなと思います。


結論

こだわりを持つというのは、道具を使っていくうちに自然に愛着を持てたり、好きになったりした結果であって、ある程度長く使ってみないと分からないことだし、最初から持つものではないなというのが、個人的な考えです。


よって、「道具にこだわりを持つべし」をそのままの意味で捉えてしまって、何でもかんでもこだわるのはなんか違うなという気はすごくします。


以上より、個人的な考えをまとめますと、「道具には、最初はこだわるべきではない。しかしながら、最終的にはこだわるべき」となります。


最後に



あまりにも本質から離れた意味のないことをグダグダと書いてしまったなという印象です。決して何かを批判しているつもりはないし、怒っているわけではないんですけどね。ただ、無から有を作るか、そうでないかという認識は、結構本質的な考えの違いに見えたので、今回、記事にしてみました。



この記事は、あくまで個人的な見解に過ぎません。そして、私が書くことは、全くあてになりません。よって、この記事は、あくまで、参考程度、もしくはそれ以下に評価していただければと思います。