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天才の人間と日々なんとなく過ごしている人間のどちらが怖いのか


今回の話は天才の人間と日々なんとなく過ごしている人間のどちらが怖いのかという話っぽいです。

別に天才でなくとも、何かに特化した専門家でもいいんですが、確かに、常人よりも知識があり、より影響力の大きな仕事ができますので、その責任も重くなりがちです。

例えば、普通の人の一つの行動では世界は崩壊しませんが、天才の一つの行動で世界が崩壊することもあるかもしれないみたいないなイメージです(あくまでわかりやすいイメージ)。

ただ、本当に怖いのはどっちなんでしょう。

見方によっては、何も考えてないし、知識もない人達の行動が一番怖いということもあります。

まあ、それらの行動の多くは自発的なものではなく、天才的な人物の扇動によるものが多いと思われますが、一概にどちらが怖いかは難しい問題です。

答えとしては、天才が民衆をコントロールして、争いや闘争に利用しようとする時が一番怖いということになり、大抵の場合は両方怖い、もしくは両方が重なったときが一番怖いということになると思います。

以下はそのことに関連する一つの視点を述べているのだと思われます(多分)。おわり。

天才の欠点


本質的な話、私の感覚


あなたは、天才的な人間を目の当たりにした時、何を感じるだろうか。

私は、彼らについて、恐ろしくまともな人間だと感じることが多い。

巷で言われる彼らの欠点は、私にとってそれほど大きな欠点には当たらない。

それよりも、いわゆる凡人と呼ばれる人達のほうが、私には「まとも」に見えないことが多かった。

私にとって重要な判断指標、それは、自ら考え、自らの意志で行動する人間か否かである。

つまり、どれほど世間から外れた考えを持っていたとしても、それが自らの確固とした信念に基づき、考え、行動しているなら、それは、私にとって「まとも」な人間だ。

必ずとは言わないが、当該要素は、私の中でもっとも重要な判断要素なので、そう考える確率が高いと思われる。

ただし、私にとって、天才的な人間と凡人的な人間は、本質的には何も変わらない。それだけは付け加えておく。

どのような人間にも本質的な欠点などというものは存在しない。全てはその時点で完璧であり、完成されたものだ。その時点で、「ただ、そこに在るもの」にすぎない。それをどう評価しようと自由だが、これは大前提だ。

ただし、その時点で完成していようと、より良い完成を妨げない。

例えば、天才と呼ばれる一人の人間が居たとしよう。その人は生まれたばかりは完璧ではなく、天才ではなかったのだろうか。子供の頃、完成されていなかったのだろうか。天才と呼ばれるようになってから完璧になり、完成されたのだろうか。どの時点で欠点が生まれたのだろうか。

そう考えていくと、ある意味で最初から完成されていた。欠点などはない。

そこには、単に個性があり、それを多くが、または個人がどう評価するかという問題だ。

無意味な話、私の前提


ここで、天才には必ず大きな欠点があるなどと考える人もいるが、これは私の考えとは全く異なる。

世間から大きく外れることを欠点とするならば、確かに、その通り、「天才は欠点だ」だ。この場合、その定義自体に私の考えとの不一致を見ることになる。つまり、議論の大前提すら一致を見ないため、この場合の議論は無意味となるだろう。

具体的には、「天才は世間を外れたものである、世間を外れることは欠点である。したがって、天才は欠点だらけだ」という論理的帰結がある一方、私が考える「天才は世間を外れたものである、しかし、世間を外れることは必ずしも欠点とは結びつかない。したがって、天才と人間的欠点の直接的関係を私は認めない」という論理的帰結では、議論の前提となる部分が大きく異るため、この場合、相手との議論は成り立たないということだ。このことを前提に話を進めていきたい。

さて、少しややこしい話をしてしまったが、簡単な説明から入ることにする。

世間から外れることは、必ずしも欠点であらず、間違っているとは限らない。

これは、上記で述べた当然の前提として共有すべき価値観の一つでもある。

では、なぜ世間から外れることを悪だとみなさないのかを話したいが、これをひとことで言うと、「過去の世間で認められなかったものが、現代では認められている例が数多く存在し、それでいて世の中を良くしたものが数多くあるから」という理由からだ。具体例もあげたいが、無意味な話はできるだけ避けたいので、この点は以後も割愛することとする。

次に共有すべき価値観は、「天才は世間を外れたものである」という部分だ。

天才とは相対的比較によって成り立つ概念だからだ。

つまり、多いか少ないかという要素が非常に重要になる。

例えば、現在でいう天才的能力を持ったものが、未来において大多数を占めることになったとしよう。この場合、同じ能力を有しているにもかかわらず、時代によって天才と呼ばれるか、呼ばれないかが変わってくる。

したがって、どうしても、天才とは、世間一般から外れた存在を指すことになる。ちなみに、この点の価値観は、上記の例からみても一致を見ることになる。

つまり、ひとつ目の「天才は世間を外れたものである」という要素は、一致を見るが、二つ目の「世間から外れることは欠点だ」という要素が一致を見ないことになるので、この場合、議論の前提条件を満たさないこととなる。

そして、議論の前提条件を満たさないことになれば、やはり、この記事を読む意味はあまりないと考える。

個人的な話、私の道


一般的に、天才と呼ばれる人々は、その個性が注目されることが多い。

しかし、一般人であろうと、凡人であろうと、その個性を注目されると、それがあたかも、大きな欠点を備えていると認められるであろうことも多いと考えられる。そして、その欠点は、むしろ、今まで聞き及んだ天才の欠点を遥かに凌駕するものであることも多いだろうと思われる。

ここで、少し個人的な話をしてみたい。そう、私の欠点ないしは、欠陥の話だ。

私は、この世界を存在の世界とそう呼んでいる。簡単に言うと、それは繰り返しの世界だ。どんなことであろうと、それが繰り返される世界。それが存在の世界の本質だ。個々の永遠はないが、最も大きな永遠で構築されている世界...。

なぜそう考えるかはさておき、少しだけ今まで説明していなかったことを一つだけ説明したい。

例えば、繰り返される世界は、生まれ変わる世界と言い換えてもよく、「寝て、起きる」または「起きて、寝る」が繰り返される世界だ。いや、本来的にはあらゆる行為、あらゆる物事が繰り返されるので、寝起きのみが対象ではないが、分かりやすいので今回はこれを使う。

この寝起き概念は、新たに生まれ変わるまでの時間的幅を発想させるのにも役立つ概念だ。

通常は、外側に在るものほど、その時間は比較的長くなる。

私たちは、1日に何時間寝るだろうか。10時間、それが私の答えだ。では、新たに生まれ変わるまでは、どれだけの眠りが必要なのだろうか。そう考えていくと、新たに生まれ変わるまでの一般的な睡眠時間を推測するのは容易い。

もちろん、「人それぞれ」が正確な答えだ。3時間しか寝ない人もいれば、12時間寝る人もいる。だが、生まれ変わるために必要な期間は、通常の人が寝起きする時間幅よりも長くなるのが通常だろう。

なぜなら、それは外側にあるからだ。外側にあるものほど、時間幅も長くなる。したがって、その時間幅は、私達が考えているほど「すぐに」ではないことが分かると思う。

しかし、このような世界観を持っていると、私は、「すべてを無に帰すほうが良いのではないか?」、もしくは「すべてを無に帰す衝動」に対して、遥かに肯定的価値観を持っている節がある。

これはよく巷の物語でいわゆる悪役が持ちうる価値観であり、悪とされる価値観だったりする。

しかし、私は、この永遠に繰り返される世界で、「すべてを無にする衝動」という価値観が一概に悪いものだとは考えていない。

なぜなら、それは、安らかな眠りに相当する価値観だからだ。

あなたは、今持っているものすべてを一度リセットされ、新たに生まれ変わる。そこには何も持ち込めず、当然ながら、今まで集めたお金や地位、自らの考えや行い、そのすべてを持ってはいけない領域である。

ある童話に持たない少女の話があるらしい。彼女は最終的に唯一身に着けている服さえも他人にあげて、そして、最後には死を迎えるという話らしい。

私は、このお話を聞いた時、「彼女は偉大な人間だが、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ偉大な人間というそれだけだ」とそう思った。彼女が偉大であることの報酬は...残念ながら何もない。

彼女が人間として偉大な人物であり、偉大な行いをしたとして、例えば、それで彼女が救われるわけではない。具体的に言うと、それで新しい生まれが、より良い物になることとの関連性は全く無い。もしかしたら、さらなる悲惨が待っているかもしれない。

すべてがリセットされるということは、そういうことだ。

これを残酷だと捉えるなら、それはすこしばかり私の価値観とは異なることになる。

例えば、彼女は服を他人にあげていたみたいだが、その他人が彼女があげた服で生きながらえたとしよう。それは、人間としてとてもよい行いをしたということになる。しかし、一つの生物が生きながらえるということは、多くのモノ、生物を犠牲にしてきたということでもあったりする。

これが犠牲になる他の生物の立場なら、彼女の行いは最悪なものだっただろう。より醜悪な天敵を幾重にも助けているのだから、それは卑劣なものに映ったかもしれない。これについては、弱々しいエイリアンが、より醜悪なエイリアンを助けているところを想像して見ると分かりやすいのではないかと思うが、私は血なまぐさい映画が嫌いなので、そういう話はなしでいこうと思う。

さて、では、天からみると、物事はどう映るだろうか。

残念ながら、彼女は人間として偉大な行いをしたが、そのことで彼女を贔屓する理由は、残念ながらどこにもない...。

これが私の価値観だ。

では、この事実を認識して、この世の悲惨を、支配を、隷従と死を想像して、それが繰り返される世界であることを認識して、そして、あらゆる人間としての偉大な行いをリセットされる世界であることを認識して、「もう少し眠りたい」と願うことは果たして悪いことなのだろうか。

「もう少し眠りたい」というのは、例えば、この星を無にすれば、私たちは、「もう少し長く眠ること」ができるだろう。例えば、この宇宙を無にすれば、私たちは、「もっと長く眠ること」ができるだろう。

繰り返されるというのは、一度や二度というレベルではない。一兆を遥かに超えて続くであろう、生という苦痛と絶望や死の間に、少しばかりの休憩をしたいと考えることは、果たして悪いことなのだろうか。

ただし、いかに長く眠ろうと、私達はいずれ目覚めるだろう。この輪廻から離脱することはできないと私は考える。輪廻から離脱して、ではどこに行くのかの問題だからだ。一つの輪廻から外れても、その先にはやはり、輪廻が在るのであろう。だから、根本的な離脱はできない。

しかし、できるだけ長く眠りにつくことはでき、そのための方法の一つが、「すべてを無に帰す」という考えだと私は理解する。

したがって、これが悪いことかと言われると、私は、「うーん、どうだろう...良くもあるし、悪くもある」、そう答えるだろう。

多くの死をもたらす考えを否定しない時点で、私は、世間一般に見て、いわゆる「とてつもなく大きな欠点をもった人間」ということになると思われる。

これについて少しばかり認識の相違があり軽く考えている方もいるかもしれないので、すこしばかり言っておくと、例えばこれは、「この星に住むすべての生物に一瞬で死をもたらすボタンがあったら、私はそれを押すかもしれない」と言っている。例えばこれは、私がインタビューで本音を聞かれれば「自分は、すべての生命の死を願っている部分もあるんです」と言うことになる。

そして、私がこれを第三者の立場で聞いたとしたら、「こいつ、...とんでもなくクレイジー(危険)だ」とそう考えたに違いない。

しかし、私は、凡人であり、一般人だ。全くもって平凡で、何の取り柄もない普通の人間だ。

そして、普通の人間でも、この程度のことは誰でも思いつくし、考えてるんだろうなと、私は、そう考えている節がある。

つまるところ、欠点が大きければ大きいほど天才だということもなければ、天才は欠点が大きいということもないのだと思う。そこには関連性はあまり見当たらない。

それは、単に個性が注目されたために認識され、広まったものにすぎない。私はそう考えている。

ただし、注意として、私は、人類の可能性を信じる人間でもある。

例えば、人類が、「人間として生まれれば、高い確率で幸せな人生が遅れるような世界」を形作っていけるようなら、それによって、私がボタンを押す確率も低くなる。そして、私はそれが可能だとそう信じている。つまり、これは、人類の可能性を信じているということでもある。

ただし、現時点では、私がボタンを押す確率が高い社会でもあるように思う。

例えば、ISなどで話題になっている紛争地域、貧困地域の悲惨さは、皆様も聞き及んでいることだと思う。そして、実際に聞き及ぶよりも遥かに悲惨なものだとそう推測している。

これは他人事ではない。私の世界観では、あれは自分なのだ。これまでの、そして、未来の自分。自分になり得るものたちなのだ。

帰結的な話、私の答え


私にとって、天才的な人間と凡人的な人間は、本質的には何も変わらない。

ただ、個性が注目される人間がいて、さらに、希少な能力を持った数少ない人間がいるというに過ぎない。

巷で言われる彼らの欠点は、私にとってそれほど大きな欠点には当たらないと思うことも多い。

凡人であろうと、その個性が注目されると、それが大きな欠点に見えることも在る。

そして、その欠点の大小と天才であることとの関連は、私はあまりないと考えている。

ただ、世間から外れた考えを持つには、自ら考えなければならないことも多いと思う。その点で、私は、天才と呼ばれる人達がまともに見えることも多かったりする。

今回はそういう話だった。